農園日誌-社会的存在価値PARTⅤ-謙虚に学ぶ

29.3.15(水曜日)晴れ、最高温度12度、最低温度4度

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 一昨日、待望の雨が降った。この時季、貴重な恵であった。
それでも今日は、表面は乾燥してしまい、明日はまた、水遣りを行わねばならない。
畑の面積も1heにもなると、流石にこの水遣りはきつい。
全てと言う訳ではないが、給水ポンプとジョウロで2~7番の畑に順番で水を撒く。
男子4人で片昼をかけて、三日間はかかる。
これも灌漑設備を備えているハウスと異なり、露地栽培の宿命である。

その間、約一反ある8番の畑の玉葱の草取りも行わねばならない。
これも、大人延べ30人を動員しなければ済まない。除草手間を避け、生育を速めるための黒マルチで地表を覆うことはしない。これも自然とのやり取りを優先しているためである。
自然循環農法とはこのように手間の塊となる。

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春のビーツ。

芽吹いて10日ほどか、
まだまだ水遣りは欠かせない。苗が小さいとポンプは使用できない。ジョウロでの水遣りとなる。

今年は思い切ってたくさんのビーツを作ってみようと考えている。
ビーツの酢漬けを試したい。

 今日、名古屋で飲食店のシェフとして勤めていた伊藤さんが農園を訪ねてきた。
前の職場を退職し、同じく名古屋で自分の店を持つことになった。
前職中、むかし野菜が心の中に残り、質が高く美味しい野菜を思う存分使って、
自分の料理を作りたいというのが退職した理由。うれしいことです。

野菜の生理のこと、素材を活かすこと、調理のポイントのこと、火の通し方など様々なお話をしたが、「生きた現場の声が聞けて、野菜の栄養価のこと、何故美味しくなるか、土作りのことなど、勉強になりました。佐藤さんのお話が理論的で、野菜の生理のメカニズムが分かり、納得できました。意を強くして頑張ります」と言って帰っていかれた。
当農園の若いスタッフと同年代であり、「彼らに我儘を言いなさい。これからは私達の仲間として扱いますよ。共に大きく成長してくださいね」と励ましのエールを送って見送る。


社会的存在価値を求めて―PARTⅤ-謙虚に学ぶこと
 
 一体何人の若者達がこの農園に訪れただろうか?
叱られ励まされながら一生懸命に習得しようと頑張ってはみたものの、自分との闘いに敗れ、去っていった者もいた。
それとは対照的に、この農法を得るためだけに農園を訪れ、一日やっただけで、後は自分でできると言って去った者も多い。
この草木堆肥のみ使う自然循環農法は先生もおらず、暗中模索で、まがりなりにもお客様にお売りできる野菜をようやく生産できるようになるのに、10年を要した。ようやく農業で生活できるだけの販路開拓にもそれだけの時間を要した。
どこからその根拠のない自信が来るのか?その後の農人としての情報はそれきり途絶えた。
 
銀行員時代にも同じような体験をした。課題先企業や新規開拓担当の部署の長を命じられ、いきなり10名ほどの優秀な男子行員を付けられる。多くは中小企業診断士の資格持ちの優等生。問題先企業の分析と対処方法をテーマとしてみた。
「どのように向き合い、どのようにこの会社を持っていったら良いのか」と質問する。
その答えはこうだ。「この会社の経営分析をしてみましたら、問題だらけの財務内容です」と言って得意げに方程式通りの財務指標を示す。
「そんなことは見れば分かる。これは現在生きている会社なんだ。この会社の現場を観察し、課題点を摘出し、どのように方向転換させたら良いのかを問うているのだよ」 
知識は持っており、頭の中で考えることには長けているが、課題に対応できる能力や行動力を持たない。官僚の模範解答をみているようで、実践にはまるで役に立たない。
               
現在のゆとり教育の世代なのだろう。運動会に一等賞も無い、競争は無し、皆仲良くには驚く。闘う術も会得しないまま、いきなり社会に出る。途端に厳しい理不尽さを伴う社会が待っている。
一見、現在の日本は自由に満ち溢れているように見えて、ゆとり教育のせいかは分からないが、与えられたレールの上しか走れない。そのくせ、現在の若者の多くは、謙虚さが薄く、ゆえに自ら考え学び行動することが不得手であり、自らの途を切り開いていく気概に乏しい。
 
現在、農園には若者が4人。3~4年目が二人、一年以内が二人。
一年目には、草木堆肥作り・施肥の仕方・畝立て・種蒔き・定植・除草・トンネル張り・支柱作り・野菜の育苗及び生産管理・水遣りなどの一連の農作業の繰り返しの中で、機器・道具の使い方から収穫選別・発送作業まで、一通りの農業者としての生産技術の訓練を反復させる。
それこそ、頭で考えることより、体が覚え込むまで、農業漬けの一年となる。
二年目になると、一連の農作業の手順と野菜それぞれの生理を学ぶ。どの季節には何をしなければならないか、その作業の時季は何時なのか、一年目で体験した作業の意味やコツを自らの体で振り返り、擬えていくこと(学習)によって、自然の中で生きる農人としての一歩を踏み出す。
ここまでくると、現在の若者たちに欠けている「謙虚さ」は次第に身についてくる。
農業は自然を相手にするだけに誤魔化しがきかない。ズルをすれば野菜ができないからである。
楽をすれば、それなりの見返りしかなく、サラリーマンでは自立した農業はできない。

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8番の畑

一面、玉葱畑、
この除草作業には
気が遠くなる。
取れども取れども、
無くならない草。

畝が伸びていってない
と、ぶつぶつ言いながらの作業が延々と続く



むかし野菜の邑ではグループ営農が基本となっている。
皆に聞く、「もし、一人でこれだけの作業をすることになったら・・」
でけん!といく同様に答える。
どうやら、皆納得しているようだ。これが我がグループの基本的精神として引き継がれていくことになる。


北九州に勤務していた時期、何のことだか忘れてしまったが、ある社長と大喧嘩をした。(最もこの地では小喧嘩は日常茶飯事なのだが)「もうお前とは話をしない」と啖呵を切って帰っていった。
翌日、日曜日の早朝、その社長から電話が入る。
「佐藤さん、昨日は済まなかった。夜、眠れず、よく考えてみた。昨日言われた事を社員たち全員の前でもう一回喋ってくれないか?税理士も呼んでおる」
この社長は工業団地の嫌われ者であったが、今では理事長となっている。
この時代、この地では生き残り競争が激しく、東京でくしゃみしたら、北九州では大風邪を引くと言われた土地柄であり、名刺肩書だけで仕事ができる社会とは異なる。
生き残っている会社の社長連中は、事業への愛情と誇りを強く持っている。それだと意地っ張りになりそうであるが、学ぶべき情報や考え方を、即、取り入れることに、躊躇しない謙虚さをも持ち合わせていた。
振り返ってみると、毎日大波小波が押し寄せてくる厳しく過酷な北九州時代ではあったし、良く乗り切れたと思うが、お陰で仕事が、生きることが楽しかった。今の自分はこのとき形ができた。
これも彼等猛者達が居てくれたからかもしれない。一人では喧嘩もできないし、事を成すことも出来ないのだから・・・。

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約二反の畑にとうもろこしの種を蒔く。後一か月と迫っている。膨大な量の草木堆肥が必要となる。

 
「謙虚」とは、畏れ敬いつつ、自らの心を虚しくすることである。
人は学ぶとき、(それは成長するときでもあるのだが)心を空にしないと、多くの有意義な情報が自らの心に入ってこない。俺はこうするんだ!そんなことは知っている!などと心を閉ざしていると、
人の言葉は頭に入ってこない。従って、人は成長しない。
特にこの自然循環農業は、先人達の積み上げていった叡智を紐解き、毎年様々に変化し続ける自然との折り合いを付けていく農法である。自然に抗うことはできないが、完全とはいかないまでも、それを読み取ろうと心がけ、努力することはできる。
 
むかしの農人(先人)達は自然を畏れ敬い、五穀豊穣を祈って神様を祭り、祈願した。真の農人は、先人から学ぶだけではなく、野菜から、自然の営みから学ぶものである。
この謙虚さを持っている限り、野菜と、天気と、自然とお話ができる。
有機及び自然農を行っている人はむかしから神に近づくと言われている。只、自らが神に成ってはいけない。またまた、俗世に戻ってしまう。欲を捨て去ることはできないが、寡欲に徹することならできそうである。
未だに煩悩を捨て去ることは難しいが、我欲をある程度捨てられるようになった今は、「俺はこう生きるんだ」から、抗うことの難しい自然の中で「生かされている」と感じられるようになり、銀行時代と異なり、孤独でもなく、寂しさも無く、自然からやさしさをもらえて、穏やかでいられるのかもしれない。