農園日誌ー社会的存在価値ーPARTⅣ-大地に這い蹲って

29.3.8(水曜日)曇り、時折晴れ間、最高温度10度、最低温度1度

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                製粉棟の一角にできる竈部屋

 加工場完成が大詰めに来ているが、ここにきて、職人不足の影響で、足踏みしている。そんな中、左官職人が一生懸命に竈を作ってくれた。
職人のこだわりで手作り感一杯。前面の壁まで土漆喰で塗り込んでくれていた。

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奥は、麹部屋。

味噌や漬物作りに
ここで麹を寝かせる
麹菌が居つくために、全面板張りの部屋
にしてもらった。

今年の冬から本格的に味噌作り・麹漬けなどに取り掛かる。
その前に自然農の
大豆とお米が出来ねば

これらの施設は、むかし野菜の加工場ではあるが、消費者の学びの部屋でもある。
現在人はこのような体験を積むことは先ず無いのだから・・

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季節は進んで春を迎えようとしている。

この時季になると、トンネルは一枚一枚剥されていき、越冬野菜達が姿を見せてくる。

すでに花芽を持ち、
莟立ちを始めている
ものもいる。





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これは赤蕪。
トンネルを張り、越冬していたため、寒に当たり、莟立ちしている

当然に出荷が出来ない
折角苦労して育てた野菜でも、特にアブラナ科の野菜はこうなることが多い。
花芽の部位を菜の花として皆様へお届けするしかない。随分と贅沢な菜の花となる。


社会的存在価値を求めて―PARTⅣ-誇りを持って大地に這い蹲る
                            
大学二年生の頃、全国的に起こっていた安保闘争の真っただ中、クラスの中で委員長の選挙があり、何故か私が選ばれてしまった。必然的に委員長は全共闘の委員となる。訳も分からないまま全共闘の先頭に立たされてしまっていた。
ある日、全共闘が占拠している大学へ全国から機動隊が突入するとの情報が入り、偶々、我がクラスは、(只、私の下宿先に近いと言う理由だけで)西門の防衛ラインを選択。もう一クラスは、東門が担当となった。

この選択が運命の分かれ道になろうとはその時は思っても居なかった。
東門では機動隊が突入を繰り返し、投石によって、一人の機動隊員が死亡する。
西門でも、一進一退の壮烈な闘いになる。機動隊1,000人に対して、日が昇る頃には全学生3,000人が集まり、石が雨あられのように降り注ぐことになった。
後日、警察によって首謀者探しが行われて、カメラに映っていた学生たちが一斉に検挙されることになった。東門の学生はカメラの映像で、ほとんど全員逮捕されてしまう。
西門はというと、カメラの逆光になっており、証拠写真が撮れておらず、幸いにも一名の逮捕で済んだ。執拗に私の名前を聞かれたそうであったが、逮捕者はみな黙秘を通した。
 
この全共闘の顛末はあまりにもお粗末であった、この挫折によって焦燥感にかられた仲間の一人は東京に出向き、デモに参加し、警棒で滅多打ちにされて死亡。また一人は服毒自殺によって若い命を散らした。逮捕された仲間達は就職もできず、人生を大きく狂わせた。
このことが、一生涯、心の重荷になった。特攻隊員の生き残りの心境と似て、残りの人生は付録であり、泥にまみれた生き方をしようと、心に決めた・・・
 
その後、親の面倒を見るために、地元に帰る。就職先は地元の銀行しかなかった。
そこでは、組織内部の様々な在り様を見てきた。本音と建て前、気を許せない同僚達。嫌気がさして、むしろ、お客様である中小企業の経営者達が私の仲間となり、先生となった。
特に北九州の社長たちの生き様・在り様・帝王学・大手得意先との付き合い方・人心掌握術・生き残るための駆け引きなど、したたかな生き方を見てきた。
ここで学んだことは、筋を通すと言うこと、これなら、母親の薫陶を受けた自分には一番合っていた。これは大義名分を掲げ、筋を押し通すと言った図太い北九州気質があったように思える。

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     先ずは二棟が完成間近。加工場としてはややおしゃれかな!

様々な人達と接してきたが、中でも特筆する経営者がいた。
彼の父は北九州復興の際、港湾土木を生業とする荒くれ達を束ねていた。
運送・解体・組立業を営むその会社に、私の勤務する銀行がかなりの融資を行っていた。
付き合いが広く、面倒見が良いことが災いして、高利貸し等に手を染め、内情は火の車状態。
つなぎ融資の際、何時、潰そうか(不渡りを容認する)と悩む毎日であった。
彼(当時は専務)が私にこう言った。「私の父に合ってくれないか?話があるそうだ」と・・
「今後の対策の相談かい?」と聞くと、目元に迷いを残し、苦しそうに頼む!の一言。
不穏な空気を感じ、「分かった。但し、私人として出向くよ」と言って、日曜日に訪れる約束をする。
 
会社の入り口(それは個人宅と同じ敷地)に入ると、かがり火が家の玄関まで連なっていた。
会社の半被を着た一同が手を膝につき出迎えている。玄関を抜けると、広間まで火毛氈が敷かれていた。
中央に社長(父)、左右にはいかつい顔の数人が控えていた。
専務の顔を睨む。(約束が違うではないか)でもすでにもう遅い。
黙って座っていると、北九州でも名うての名刺を次々と差し出してくる。太い文字が書かれていた。社長は上の段から鷹揚に挨拶をくれる。
覚悟を決めて、こう言った。「本日はお招きを頂きましたが、このような大勢の歓待とは約束が違うのではないでしょうか」 途端に周りから罵声が飛んでくる。
「本日は公務ではなく、じっくりと刺しで話したいと思っておりましたが、違ったようです。帰らせていただきます」と社長を見据える。
しばらくの喧噪の中、一時の間をおいて、社長は席から滑り降り、左右の人達を全て下がらせた。
社長は、「頼みます」の一言を残し、潔く代表権のない会長に退き、息子に後事を託す。
 
直ちに、前回お話したある競合融資先であった都銀の支店長と再建計画について合意を求め、さらに大手生保会社(金融)を説得し協調融資の形(これを根回しと言う)を整えた。
一番最後に、自行へ、真正面から前代未聞の「高利救済資金」の表題の稟議書を突き付ける。
飲まなければならない状況を作り上げた。(自行は大きなリスクを抱えたままになるため)
10数名いた高利貸しの一同を集めて、全権を持って(実際にはそんなものはないのだが)金融減免を依頼し、こう言った「この手に○億の資金を用意した。皆様の高利金総額にはやや足りない。もし、私が割り振りさせて頂いた減免に応じなければ、残念ながら明日この会社は倒産させる」と・・
 
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この幅二間の軒下がこの建物の命、この軒下には収穫した玉葱・とうもろこし・にんにくなどが吊るされる。乾燥させた上で、保冷庫に収納する。
これによって、今まで大量に作れなかった玉葱・にんにくなどが生産可能となる。
(通常保存では、腐ったり、芽吹きしてしまうため)


連日の資金繰り対応に追われていたことから解放され、再建計画に沿ったその後の社長の奮闘により、今では、この会社は、全国でも一目置かれた重量物運送会社となっている。
毎年恒例ではあるが、その会社から感謝祭への招待状が届いた。今年は欠席の意向を伝えると、社長の息子(専務)からこう言われた。「佐藤さんが来ないと、社長が悲しみます」
出席した会では、私の顔を見て社長が鷹揚に頷く。すでに亡くなっている父親に酷似している。
一つ異なるのは、共に一時代を闘ってきた仲間であったこと。
息子にこう伝えた「今、この会社があるのは、貴方のお爺ちゃんが信義と社員の鉄の結束を作り上げ、貴方のお父さんが恥を忍んで裸踊りをしながらでも復興させたからだよ。
あの時は、社員の給与を払ったら、家族の生活にも事欠き、米櫃にはお米がない。大手会社への接待にもお金がなく、社長は私によく無心に来たものだよ。その苦しさを決して忘れてはいけない。貴方は三代目として、驕ることなく謙虚にその信義を繋いでいきなさい」と・・・
 
むかし野菜の邑の農園の日常は、一見すると実に平凡である。連日同じことの繰り返しの作業が続くように見える。中に入ってみると、実に多岐にわたった作業が続く。
毎日することが異なり、季節が異なるとやる作業も違うし、毎年同じようにしていたのでは、野菜はできないことが分かってくる。毎年、気候は目まぐるしく変わっていくからである。
ここでは、栄養価のある、安全で美味しい野菜を育てている。それは重労働となる草木堆肥を毎年毎年、絶え間なく繰り返し、補充し、土作りを行っているからであり、そこに棲む微生物達の生命の営みによって、生まれてくる野菜である。
 
そこでは、人間の驕りや恣意は通用しない。自然と共に、生きている農人の姿と次の世代へと受け継がれていく宝物の圃場がある。
自然と折り合いを付けていく日常は、北九州の社長達と同じであり、生きていくために這い蹲って闘っている。彼等の心の中にある仕事に対する誇りもまた同じである。