農園日誌ー社会的存在価値ーPARTⅢ-社会的責任

29.3.1(水曜日)曇り、時折晴れ間、最高温度12度、最低温度2度

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  土曜日、堆肥場全てを使って朝から午後三時まで大量の草木堆肥を作った

窪田君、「こんなに堆肥が出来ていると何だか安心しますね」と・・
研修生として受け入れ、3カ月を経過した。ようやく慣れてきた段階で、この一言は
急成長している証かもしれない。
一番下に草を厚さ5~7センチに敷き詰め、放牧場から取り寄せた牛糞(匂いがない)を厚さ二センチを重ね、最後は皆で破砕した剪定枝と葉っぱを厚さ5センチに乗せて、ロータリーで攪拌する。タイヤショベルで高さ約二メートルに積み上げて完成。
一次発酵(温度70度)したら、2回ほど切り返し作業を行って、中熟堆肥が出来上がることになる。(3回切り返すと完熟してしまい、最早肥料にしかならない)
この間、(今の時季であれば)約3カ月を要する。

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             7番の畑に草木堆肥を振っている風景

 研修生は先ずはこの作業を覚えさせられる。繰り返しの反復作業でほぼ3カ月で
ようやくコツを覚える。この上にさらに焼き灰と苦土石灰・牡蠣殻を撒く。
野菜を植え込む前に必ず行う土作りの作業である。
この畑は、草木堆肥歴4年を経過しており、都合、4年×3回=12回は堆肥を振っている計算になる。
土は団粒構造が形成されつつあり、当農園の基準では銀ラベルに当たる野菜が生産されている。後、一年で最高レベルの味である金ラベルに昇格する。

ちなみに、二番の畑は16年目(プラチナ級かな)三番と四番の畑は12年目、
五番の畑は6年目となり、当農園の主力の圃場として活躍してくれている。


社会的存在価値を求めて―PARTⅢ-社会的責任(社会的役割)
 
 会社員であったころ、企業再建の仕事を多く担当してきた。最も上から命じられたわけではない。問題を抱えた取引先と向き合うとき、融資〈判断〉業務の上で、会社組織から、商品及び販売先ルートの見直しなど、会社の将来性の見通しを付けるため、その会社の抱えている課題に取り組まなければならなくなるからに過ぎない。
 
その中で、あるフェリー会社があった。
当時、この会社は一人の大株主の意向により、方針が二転三転しており、経営方針が定まらず、四隻の船は老朽化し、航路を維持することも難しい存続の危機にあった。
融資係の担当者として、船一隻が40億、しかも四隻の船を作るには、資金がない、経営も安定しないなど、立て直しに苦慮していた。
深夜の2時、自宅の電話が鳴る。フェリーの古参船長である嵐船長からの無線電話であった。
「只今、当船は来島海峡(潮流の激しい海域)の真ん中です。エンジンが停止しました」
「大丈夫ですか?」と聞くと、「何とかします。只、このような状況にあることを佐藤さんにご理解して頂きたかったからです。どうか、助けてやってください。仲間達のために」と・・・
 
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                  樹氷に覆われた久住連山


ここから、私の苦闘が始まった。
フェリー会社の株主たちを訪ね歩き、恣意に満ちた大株主の排除から始まり、建造資金の捻出に金融機関・船舶公団と交渉し、最後は、自行の説得や様々な駆け引きを行うも、協調融資で暗礁に乗り上げる。
そんな中、以前、別の会社で協調融資を組んだある都銀の支店長(その時は審査部長)を訪ねる。その導きで、フェリー会社を担当する本店営業部のトップと会う。結果は協調融資を断られたが、その際、その審査部長の計らいに涙する。
本店部長の一言、「審査部長から肩書に惑わされずに、信頼に足る融資マンだから、よく話を聞くようにと言われております」と・・
 
窮していると、これも以前相談に乗ったことのある大手信託会社の融資係を思いつく、早速に連絡を取り、会社の分析資料(私が作成)を東京へと送る。直ちにそこの審査部長が会いたいとの連絡が入る(流石、都市銀行の対応は早い)飛行機に飛び乗って、相談に赴く。
そこで、新造船建造における新たな付加価値の付け方(私の提言でトラック輸送業務に旅客業務を加えること)の件、問題の大株主の排除の件、協調融資の配分の件などの協議を行う。
その後、自行の方針が二転三転し、自行の融資分担額を減額させられ、信託銀行へ上乗せすることを飲ませれば、OKなどの無理難題を突き付けられる。裏にはこの融資案件を潰すとの思惑が出ていた。
 
急遽、東京へ赴き、信託会社審査部長の説得に入る。船舶公団の融資枠28億失効まで一カ月と迫っていた。(この一隻の融資枠を外されると後の三隻の融資枠も失効する)
長時間の協議の末、融資金額の上乗せを飲んで頂くことになったが、最後に担保が不足するが?との質問にこう答える。「船の担保価値ではない。この国の認可事業である航路に担保価値があるのです。これなら絶対に沈まない」と・・・
 
それから、4年後、転勤になり本店融資課に勤務していたが、突然、受付に白い服をきた人が佐藤さんを訪ねてきたとの連絡が入る。
案内されてきた純白の正装姿はあの時の嵐船長。
「お世話になりました。本日退艦致しました。佐藤さんのおかげで無事にこの日を迎えられたことにお礼を申し上げます」と言って敬礼を受ける。

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製粉所に付属した
竈部屋
職人さんが土を捏ね
腐藁を入れ、竈の
原型を作っている処

むかしの竈で炊いたご飯を食べる。薪を燃やし、始めは強火、吹き出したら、薪を引き、
最後は熾火で蒸らす。
こんな体験を御家族に
味わってもらいたい。

そんな気持ちからこの施設には竈や幼児のレストハウスを作っている。

この一連の懸案で、3人の男の生き様を見た。
都銀の審査部長、彼はこの案件の前、別の会社再建での協調融資の交渉の際、私の思い上がりを正してくれた人。この折衝では脇の下から汗が玉となって落ちてくるのを経験させられた。
交渉にたじたじとなりながらも、うれしさと恐怖がないまぜになって、感動で心が震えていた。
OKをもらい、別れる際に、私はこう言った「支店長は随分とご苦労なされたのですね」
彼は初めてにっこりと笑って、「君だけだよ。そう言ってくれたのは」と・・
後日談ですが、そこの次長がこう言っていた。あの人はかみそり○○と言われ、頭取も一目置く存在です。その人と対等に話したあなたは凄いと・・穴が合ったら入りたい心境にかられた。
 
信託銀行の審査部長、彼はまさしく日本のバブル時代を作っていった人であることを確信した。
只、彼はこう言った「君の分析力と説得力は私には無いものであったよ。但し、君は企業のダイナミズムを知らない。一度軌道に乗ってくると、企業は雪だるまのように大きく動いていくのだよ」
「君は今の処を辞めなさい。君のいる処ではない。私が推薦するから、副社長として、ある上場会社の面倒をみてくれないか?」と・・
後日丁重にお断りをした。あなたの駒になる気はない、との思いからだったが、受けていれば今の農園主はいない。
良くも悪くも一時代を作ってきた一人であった。
 
最後に、嵐船長、彼は私の母と通ずる古き良き時代の日本人の典型の人であった。
今思えば、彼からの無線電話により、覚悟を持ってフェリー会社の再建に取り組み始めたと、言えなくもない。人を動かすとはこういうことを言うのだと教えられた気がする。
 
この話には、スーパーマンはいない。みな極く普通に自分の責任を果たそうとしただけであり、
但、少し異なるのは、社会的責任(役割)を負う意気込みが皆より大きかったに過ぎない。
そして、みな、自分の仕事に誇りを持っており、いたずらに規則に縛られず、真摯に目の前の仕事に向き合っていた。
 
銀行勤務していた時は、職種柄かなりハードで精神的にくたくたとなっていた。
人との欲に向き合う仕事であったからかもしれないが、外のお客様達との折衝よりも、行内での駆け引きや交渉事の方がより困難を極め、時として後ろから矢や鉄砲玉が飛んでくることもしばしばであった。それを払いのけながらの緊迫した折衝や判断が必要とされた。
前述の好対照な二人の審査部長も自行内の矢玉を避けながら、その位置にいたことになる。

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 農園主は、その二人の生き方はできず、と言うより、嵐船長の生き方に近く、人の欲にまみえる処から脱することを自ら選択した。
農業は、自然と向き合い続ける世界である。人の欲や虚勢は自然からは相手にされない。自然の厳しい洗礼を受けることもしばしばである。それでも自由を得られ、何より野菜達からやさしさをもらえる。
農産物は自分の選択権を持てない市場に出すことより、直接消費者に販売する途を選ぶ。
全てとは言わないが、この野菜はやさしい人達と巡り合う機会を与えてくれる。