農園日誌ー社会的存在価値ーPARTⅡ-存在する意味

29.2.22(水曜日)曇り後雨、最高温度12度、最低温度2度

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 農園は様々な色で満ち溢れている。
同じ緑でも、赤でも様々な濃淡があり、お花畑より美しい佇まいを見せるときがある。
年間百種類以上の野菜を作り続けているからかもしれないが、農園の日常は飽くことがない。
作業を止めて、一日の作業を終えて、畑を眺めていると野菜から癒されているのだなと感じる。

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スイスチャート

寒が強く寒さに弱いため、この時季はハウスに定植した。

10種類ほどあるサラダセットの一つのアイテム。

酸味があり、色合いもきれいで、サラダセットのアクセントになっている。

この時季は4~5月採りの春野菜の種蒔きや苗育てを行っている。
二月になって、春大根二種・サラダセット・葉野菜3種・人参・ほうれん草・蕪類などの
種蒔きを行う。キャベツ・白菜・ブロッコリーなどのアブラナ科の野菜は、育苗トレイに
種を蒔き、3月初旬頃に定植する。

マルソー(フレンチ)の小西さんから定期便コールが鳴る。
七つ星用のサラダセットを忘れないように多めに入れてくれ!佐藤自然農園のサラダだと言ってあるんだから、頼むよ。
それと、赤大根が入ってなかったよ。白いのばかりだと困るんだから。(中蕪のこと)
紅芯大根を入れてあるだろうに!と言うと、ダメダメ、量が中途半端で使えない。
今回は仕方ないから中蕪を使うよ!
バランスよく入れてくれなくちゃ!とダメ出しが入る。

おい、こんなことを言われているぞ!今後はバランスよくお客の数を考えていれるようにしてくれよ!と皆に伝える。
「分かりました。がんがん入れます」否、バランスよくと言っていたぞ!
どこか、噛み合っていないようないつものやりとり。

 いつもは、スタイルの異なる取引先レストランの席数や皿の中の彩や根菜・葉物・サラダなどのバランスを考えて野菜の収穫発送をするように訓練を繰り返してきた。正に真剣勝負の世界でもある。これが当農園のスタイル。
通常、料理人は、自分のメニューの構成を決めてから、食材を調達する。
当農園取引の飲食店は、そのやり方を逆にしてもらうことにしている。
つまりは、当農園お任せにて、その時季一番美味しい露地野菜を送るようにしてもらう。それが旬菜である。
ちなみに、今の旬菜はハウス栽培が基本となっており、旬の感覚が薄れてきている。
料理人は、本来如何に素材を活かすかが問われている筈。
今日、味にこだわった育苗メーカーの一社が農園に訪れた。彼もこう言っていた。
「今時の料理人は、先ずは灰汁取りと称して、野菜を煮出してから、(ついでに旨みも味香も失わせる)味付けをする。困ったものだ」と・・

今では、レストランへの出荷は、若い農人達に委ねている。徐々に野菜作りのプロが育っている。このような経験は、他ではできない。

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           隣の果樹園では、桃の花が咲き始めている。

社会的存在価値を求めて―PARTⅡ-存在する意味
 
 農園主が人生の中で、最も悩み苦しんだ時期は、今思うに、高校生の頃であった。
信義の人であった母親により、幼いころからずーっと甘え守られてきた自分があり、秀でるでもなく、劣るでもない、極く普通のおとなしい子供であった。
それでも、母親の薫陶を受けていたからかもしれないが、教室の片隅でいじめられ続けている子がおり、ある時、突然に、その子をかばったのか、庭箒を持ち出し、大勢の男の子の頭を殴り、先生に止められたこともあった。あんな大人しい子が故?と先生たちをびっくりさせたこともある。
 
高校に入った際、成績もそれなりであった。高校も三年にもなると、次第に成績が低迷し、このままでは国立大学には到底行けない処まで落ちていた。
心の弱さと葛藤していた。自らを鍛えたかったのか、高校三年の一学期、体育教師からバスケットをやらないかと誘われ、即座に入部。
放課後、毎日へとへとになるまで、鍛えられ、帰ると風呂に入り飯を食い、直ちに机に向かう。
毎日が睡魔との闘いとなり眠くなると錐で腿に刺す。目が覚める。また、机に向かうの日々。
部活を終了した夏休み、毎日風呂と食事の時以外は、部屋から出ない、睡眠時間は6時間と決める。一年生の頃からの教科書を持ち出し、一からおさらいを始め、一か月やりきった。
夏休み明けの県模試、いきなり10番になる。
小中学校の時代の私を知る人と、大学以降の私を知る人の評価は180度異なることになる。
 
人は人生の中、必ず、自分を乗り越えるべく自らと闘った時間が必要である。これを体験していないと、生きる術を失ったままとなる。その秋(とき)は自らが探すべきである。
それが生きる支えとなり、理不尽さの中で、生き抜く勇気を持てる。
 
現在、農園で働いている若者たちは4人いる。多くが手作業の連続であり、毎年変わる気候に向き合う自然循環農業の習得は厳しい。刻々と変わる農作業の手順に考えなくとも体が自然に動くようになるまで鍛えられる。
朝から晩まで、時には休み返上の農業漬けの日々を送る。
ここではサラリーマンは要らない。自立できる農業者を育てている。
失敗をすると、「すみません」と、言ってくる。農園主は必ずこう言う。「私に謝らなくてよい。野菜に謝りなさい。そしてその生理を観察し、野菜の立場になって考えなさい」
 
脱落していく者もいるが、半年が過ぎ、一年が過ぎるころには、腰が据わり始め、私に殺されると言っていた若者たちも3年を過ぎるころ、それは独立の時、もう目が迷っていない。仲間達との連帯感も生まれている。
生きる意味と一生の目標が自分なりに見えてきたのかもしれない。
その三年間は、彼等にとっては、その秋(とき)だったのだろう。
但、自然と向き合い、野菜と話ができる一人前の農人になるには、この後、さらに数年を経なければならない。


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まだまだ寒い二月下旬

冬の間にトンネル被覆され、育ってきた野菜達も多くは剥がされ、
寒風と太陽に晒され
身を縮めたり、伸び上がったりして、糖質を蓄えて冬野菜本来の美味しさが出てくる。

野菜達もなんだか
嬉しそう。

 

一昔前までは(農園主がまだ若い頃)職業選択の自由はあまりなかった。
親のために、親を泣かしてはいけないとの思いが強く、決められたレールに乗っかること、優良な会社に就職して、出世をして、親を安心させるというのが一般的であった。
勿論そのころの会社には幾分かの夢もあったし、創業の理念が残っており、社内にはまだ連帯感もあった。社会的責任を果たすという誇りもあったように思える。
 
やがて社会的責任を負うといった創業理念は形ばかりとなり、バブル時代の頃からか、ひたすら自社の利益のみを追求するというように変わってきていた。
働く理念と道標を失った(会社)組織は弱い。規則決まりが増えてきて、一体何の目的で決まりがあるのかすら分からなくなる。所謂、マニュアル化してしまい考えて行動することを放棄し始める。
責任を負うことを嫌い、上に阿ることを優先してひたすら上司の顔色を窺う。そこでは顧客満足は名聞だけになる。
 
農園主も、会社に勤めている際に、再三再四、トップから呼び出しを受けて注意を受けたことがあり、トップの意を介さないと判断されたのか、最後は、こう言われた。
「君はお客様の評価が高いとの評判だが、一体どこを見て働いているのか。会社の目的は何かね」と・・
こう答えたように記憶している。
「お客様です。会社である以上は利益を上げることは分かっているつもりです。私は、常にお客様の利と会社の利の中間を目指して対応しております。そのことがお客様の満足であり、会社の利益に繋がると考えております。私達には、と言うより会社には、社会的な責任があると思っており、この地域での責任を果たすことが会社の存在価値であるとの信念を持っており、そのことに誇りを持つべきかと考えます」と・・
 
答えに窮したのかイライラし始め、彼はこう言い始めた。
「君は何も分かってはいない。私がどんなに苦労してトップに尽くしてきたと思っているのか?君はそこのところが分かっていないのだ」と力説する。
それを潮時と考えてこう答えた。
「私は、会社員である以上は組織を一番と考えており、ルールを超えてトップに自分の考えを伝えることをしてはならないと思ってきました。組織の崩壊をもたらすことになると恐れたからです。
私が尽くしているのは会社であり、そこのお客様であり、トップではありません」と・・
 
一週間後、ラインから外され、検査部へ転勤の辞令が降りた。
後に国の指示により監査部と名称変更させられ、監査部の主査として、この社長と対峙することになったが、この人事が中途退職の引き金となり、今の農園主がいることになる。

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 これは私の体験談でしたが、このような社会の中で、道に迷うことがあれば、私はこのように伝えたい。
大義名分(会社理念)を掲げ行動しなさい。信義は通しなさい。それでどうしてもだめなら、そこは貴方の生きていく場ではないのかもしれない。自分を変える勇気を持ちなさい。若者であろうと、退職後であろうと、自分の一生を託せる途があるかもしれません。人生は一度しかないのだから、心が死んだらそれで終わりです。自らが存在しているという誇りをも失うからです」

私の二度目の人生は54歳からでした。