農園日誌Ⅱー「活きること」PARTⅣ

31.2.6(水曜日)雨後曇り、最高温度13度、最低温度6度

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                      堆肥作り

 寒さも和らぐ気配を感じて、春野菜用の堆肥作りを行う。
この時季は温度も低く、使える状態に発酵が進むには、約2ヶ月を要する。


「活きること」ーPARTⅣ

―人との出会いは、楽しからずや!―
北九州戸畑の銀行員時代、当時はバブル崩壊オイルショックニクソンショックなどで、大不況の時代に入っていた。そんな中、負債を抱えて、倒産寸前の会社が多数あり、戸畑支店でも2百数十社の会社のうち、およそその1/3は不良会社であった。
毎日が、この会社を生き残らせるか、どうしたら生き残させられるのか、何時潰すか、などと、正に切った張ったの毎日であった。連日帰宅は午前1時か2時頃と過酷な生活を送っていた。
私には、会社を活かすか、終わらせるか、その物差しが二つあった。
一つは、企業がこの社会に存続している価値があるのか?つまりは、企業として存続できるだけの販売市場(事業存続ドメイン)を持ち得るのか?
二つ目は、生き残ろうとして努力しているのか?目先だけで誤魔化していないか?
小手先の粉飾決算や資金確保などに追われ、本来の生産活動や販路の維持拡大を行い続けるだけの気概が残っているのか?であった。
もし、この二つの基準に合致していた場合は、私にとっても企業にとっても過酷な闘いが始まる.

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料理マスターズの(農林水産省の)表彰式に坐来のシェフと一緒に私も招かれた。優良な生産者の食材を採用し、料理人がその価値を高めた、と言う趣旨のようだ。何故か、国会議員や有名料理人ばかり目立ち、生産者の私は付け足しのようだった。何のことやら・・・?

 行き詰まった会社は、商品開発・販売開拓などを行う余裕も無くしており、金策に駆け回っていることが多い。そのためそんな会社は先ずは、資金を繋いで安定させ、新たな商品を開発させて、又、新たな販路を開拓し、生き残らせる途を探さなければならない。そのためには休日も返上し、事業現場に出向き、取引先との直接折衝も行う。
その基準に合致し、倒産寸前の重量物運搬・解体組み立てを業とする会社があった。しかもかなりな額を貸し込んでいた。
財務分析・将来の事業展開の試算・事業の存在価値などを測った上で、販路の確保と資金の確保を行うべく、審査部と協議を重ね、銀行経営陣の反対を押し切って、(と言うより、倒産させた場合の高額貸金ロスを盾に半ば脅したと言うところだったか)解決策を模索した。
私自らも大手取引先との直接折衝を重ね、ようやく、販路(売上)確保の見込みが立ち、後は高利借入の圧縮交渉とその肩代わりの資金を如何に繋ぐかと言った局面に至った。
そんな時、大手の取引銀行であった福岡の支店長に、協調融資の直接交渉に赴いた。ちょっとした粉飾決算や事業計画を携えて・・
当時は、自己の能力を過信しており、いささか天狗になっていた時期であった。
その支店長、小塩氏と再建計画書を披露し、面談している際に、5分間の沈黙があった。
わずか5分間で、私が自信を持って作成した再生計画書や粉飾決算を見破られてしまった。
今までの自己過信が見事に崩れ去った瞬間に、今までに経験したことの無い脇汗が、ぽつり、ぽつりと落ちていることを感じた。極度の緊張感に対した時、人の体はこんなふうになるんだと妙に感心していた。
真剣勝負に追い詰められ、焦燥感に襲われた。唯、まだ試合中であり、開き直り、頭を下げ、この企業の実態と今後の生き残れる市場領域の話や今までの販路である大手企業や高利貸しとのやりとりを全て話した。
その結果、彼からこのように言われた。
「貴方は銀行員である以上は転勤しますね。転勤した後も、この企業の面倒を見ますか?」
「もとより、私はその覚悟が無いとこんなお願いは致しません」と答えると、「少しお時間を下さい」と言って席を立った。
 
10分ほど経過した後、「審査部とは話しました、私の一存では決しませんが、了解しました」と言われた。
別れ際に、私はこのように伝えた。「小塩さんは随分とご努力されてきたんですね」かれは初めてにっこりとほほ笑んで、「貴方だけだよ。私にそう言ってくれたのは」と・・・
その後の次長たちとの昼食時において、次長からこう言われた。「私はあの小塩さんと対等に話をされた人を始めて見ました。あなたは凄い」と、その時、また脇の下に再度汗が湧き出ると同時に、支店長のほほえみの裏にわずかながら寂しさが漂っていた顔が浮かんだ。
立ち合いに負けて、爽やかさと大きな感動が残った人生最大の出会いであった。唯、人が人を知ることの楽しさとさらなる高みがあることへの喜びが私の心を覆った。
生保と二銀行の協調融資はなったが、最後の詰めが待っていた。高利貸し達への1/2カットの交渉であった。全員を集め、横に公認会計士を控えさせて、こう言った。「数億の資金確保は成った。すでに充分に法律制限以上の金利は得たはずです。貴方方が私の提示した金額まで貸金カットをしないと、明日、この会社は倒産させる。一時間だけお時間を与えます。尚、この公認会計士が証人です」と・・
その後、小塩さんとの約束は守り、今でもこの企業とは一年に一回は行き来があり、北九州でも有数の企業になっていた。
この支店長は、あまりにも出来過ぎていたため、その都銀では常務にまでしか昇れなかった。
ちなみに、わたしは、最低級の管理職のまま、銀行を去った。

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山口県の農業者グループへの研修風景
この頃、何故か 、あちこちからその県の振興局に伴われて農園見学者が訪れてくるようになっていた。
この自然循環農業は、見ただけでは決して分からない。折角だからと、草木堆肥作りから
施肥の仕方、密集植えなど、高集約農業の話をするも、次第に空しくなってくる。やはり、
楽な農業を覚えてしまっている現在の農業者には伝わらないようだ。

2009年11月―和風レストラン
話が大きく脱線しました。元に戻します。
映像企画会社の重藤さんの設定したテレビ放映の後、タンガとの取引が始まり、偶々、その番組を見ていた大分県の職員が、タンガに訪れ、そこで初めて佐藤自然農園のことを知った。上田君であった。
彼は、銀座一丁目(新橋近く)にて、東京坐来と言う大分県のアンテナショップ(実態は和風レストラン)の立ち上げの食材部門の担当者となっており、早速に当農園を訪ねてきた。
それから、県内の「食」を発掘するために、同行を依頼され、県内を3日以上引っ張り回された。
当時は、中々に良い食材が見当たらず、結果として、彼から農産物全般の仕入先を見繕うように依頼されいくつかの農園を回り、一緒に県のアンテナショップへの野菜の納品を行うように誘った。
只、その後、一つ消え、二つ消えして、うちしか残らなかった。
農家にとって、飲食店のように、少量多品目の生産や納品は手間がかかり、続けられなかったようだ。
単品目生産・大量納入に慣らされてきた日本の農家にとって、直接ユーダーに向かい合うことをしなくなっていた。その結果、すでに生産者の農産物へのこだわりや誇りも失っていた。

 坐来へはその後、一年間に数回東京へ出向き、味香りがあり、旨みのある野菜の熱の食え方、素材を活かす調理の方法、盛り付けのこと、及びサービス担当への自然循環農法による野菜の説明の仕方、県産品の語り部としての役割などの研修を行っていた。
銀行員時代、幾つかの飲食店事業再生に携わり、直接料理人やサービス担当の人達に向かい合い、メニュー開発・コストの削減・お客様へのサービスなどの改善策を建て、実行させてきた経験が役に立った。
料理人は、自ら学んできた技術や経験に縛られている傾向が強く、既存の枠から脱却しようとはしない。
例えば、大根・蕪・牛蒡などの根菜類は、皮を厚く剥き、水に浸して灰汁を取り、出汁で煮込んだり漬けたりして、味を染み込ませる。その出汁での味付けを良しとする傾向が強い。
角栄養価があり、味香り・旨みのある野菜を育てたとしても、これでは、皮と実の間にある栄養価や美味しさを捨て去り、残り滓(かす)をお客様に食べさせているのと同じである。
 
和風料理は、出汁の料理であると同時に、見栄えを大切にする。
この伝統的な調理手法に、素材を活かす工夫を取り入れてくれるように度々促し、野菜の旨みを閉じ込める遣り方を示唆していた処、彼は日本料理の基本である湯通しや蒸すことを取り入れ始めた。(家庭では中々行えない野菜の下処理)
肉や魚料理の添え野菜として、外には火が通ってはいるが、中は半生の根菜類などが下味を付けて添えられていった。
次に生野菜を使わない和風料理に対して、このように伝えた。
「よいかい、食事代1万円程度の高級店では、年配の方が大半を占めるはず。だとしたら、肉や魚を食べる際、必ずや箸休めが欲しくなる。それが生野菜に近い爽やかな一品や脇役が要る。和風だからと言って、生野菜は要らないことにはならない」と再三提言してきたが、中々実行に移さなかった。
その後も粘り強く説得を続けていると、おもむろに、サラダ野菜の春蒔きを作って見せた。彼のささやかな抵抗であった。それでも、坐来にようやく生野菜が登場した。
 
このように、ごりごりの和風にこだわるシェフとは随分と熱いやり取りを重ねたが、彼の素養と努力や工夫もあって、その後、東京では有名なお店へと昇っていった。
和風料理人としての小さなプライドを捨て、素材と向き合う真の料理人として、お客様の心を掴んだ結果だと思っている。

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研修の最後は、農園ランチでおもてなしを行うことが多い。家族総動員で料理を振る舞う。