農園日誌Ⅱー「活きること」ーPARTⅢ

31.1.30(水曜日)晴れ、最高温度12度、最低温度2度

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        冬の農園、雨を待つ野菜のためにビニールトンネルを剥ぐ

 トンネルを剥ぐと、畑の全容が現れ、野菜の成長が見える。ついでに雑草も・・
雨の後、寒に当てるため、リスクはあるものの、しばらく剥いだままに置いてみる。


「活きること」PARTⅢ

 学生時代に食うに困り、様々なアルバイトをしてきたが、ここでもっとも役に立ったことは、造園会社での3年間のアルバイトであった。
最後のころは、造園設計まで手掛け、アルバイト頭として職人を率い、様々な植栽や公園などの側溝掘りなどの力仕事をしていた。
さらには、銀行員時代、不動産建築会社へ再建出向をしたおり、バブル崩壊後の遊休資産の処分をしながら、開発可能な5万坪の荒れ地の有効利用のため陣頭指揮を執り、自ら企画設計をし、観光ハーブ園を作り上げてきた。
ここで、学生時代のアルバイト経験がものを言った。

観光ハーブ園での出来事。
広い畑に放物線を描くように畝立て作業を行うように設計し、現場の作業員に指示していた。
本社で数件の住宅設計に(出向先は個人住宅建設・不動産会社)承認の最終チェックをし、午後に開発中の園の現場に出向いたところ、遅々として作業が進んでいなかった。
どうした?と聞いたところ、「企画室長(当時の私の役割)!そんな円を描くような鍬打ちはできん!」と、農業や土木作業のベテランのおばちゃんたちが口を揃えて不満を言う。
黙って、自ら鍬を取り、緩やかな放物線を描くように長さ200メートルの畝を立てて見せた。
皆の顔色が変り、私の後を辿るように、7人の農家のおばちゃんたちが鍬を並べて必死に続いてきた。
 
又、ある時、固い土の上に植栽を施すように指示したが、土木作業のベテラン達が一斉に不満を言い始めた。(大きな木の植え替えの場合、ユンボで穴を穿つと土壌が緩み、大風などで倒れてしまう)
「無理や!そんなことはできん」
おもむろに、つるはしを執り、十字を描くように固い土の上に打ち込んだ。それを繰り返し、スコップも使い、幅70センチ深さ100センチの穴を掘って見せた。
今度は、5人のそのベテラン達が10本の穴を黙々と掘り始めていた。
 
青白い銀行員が何を言うか?とのふてぶてしい態度は一変し、お陰で、作業は進み、わずか6カ月でハーブ園の姿ができた。その進捗状況に近在の農家からは、「キチガイ」(狂人)と言われていた。
やはり、人は口で指示しても、動かない。指揮者がやってみせ、一緒に汗を流し、結果を示してやらないと、動かないものだ。また、自分でもできない事を指示すべきでもない。

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最初の5年間くらいは、農業技術も下手で、自然循環農法も手探りの状態であった。何しろ、草と葉っぱが主体の草木堆肥と言う低窒素栽培であるため巻物野菜であるキャベツ・白菜などが中々巻いてくれない。
水遣も手が回らないからか、折角蒔いた種も思うように育ってくれない。筋蒔きも歯抜け状態となってしまう。そのため、反当収入も低く生産性が上がらない状態が続いていた。


そんな経験が早速に農業に生きた。

本格的に農園を開いて一年目、銀行員時代、10年間の様々な有機栽培の実験に基づき、迷うことなく草木堆肥一本に絞った土作りが始まった。

最初は、現在2番の畑と言っている以前は田んぼの畑での本格的な野菜作りが始まった。

草木堆肥に棲んでいる微生物の生命の営みの作用で、確実に土は変化していった。しかしながら、元々は田んぼであったため、一年間で3センチの深さしか団粒化が進まず、3年を経過しても10センチの深さにしか腐食は進まず、その下は相も変わらずに、泥田の状態である。

雨が降ると、すぐに泥濘、少々長く雨が降り続こうものなら、トラクターまでも埋もれてしまう。

これではと思い、畑の周囲をショベルカーで掘り起こし、深さ50センチの溝を掘り、水路に流せるようにした。

農業は土木工事と心得たり。

それでようやく、水浸しの畑からやや解放された。

水に浸ってしまうと、野菜は空気が入らず、成長が止まるか、根腐れを起こし最悪の場合は萎んで立ち枯れてしまう。

そのため、絶対に必要なことは、平植えではなく、畝を立て、水捌けを考えた耕作をしなければならない。

しかも、土地に合わせた勾配を取ることが不可欠となる。土木作業や鍬打ちやレイキ(熊手)作業は昔取った杵柄と言うところか。

 
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 農園を開いてから5年経過した頃から、長男の嫁、寛子さんと次女茂登子も加わり、家族で3反の圃場を管理していた。相変わらず、土作り、畝揚げ、など力仕事は男手一人ではあったが、種蒔き、草取り、収穫、堆肥作りなどを手伝ってもらい、随分と楽にはなってきた。

草木堆肥作りは当初の二年間は、手作業で行った。

近在の雑木林から下刈りを行いながら、葉っぱを集めてきた。

除草した草や畑の周囲の草を刈り取り、山のように草も集めた。

近くの牧舎から牛糞をもらい受けた。

これらを草・牛糞・葉っぱの順に三層に何回も積み上げ、その度に水路から水を取り、加え、踏み込み幅1m、高さ1.5m、長さ10mとした。一人でフォークなどを使った手作業で行った。

微生物は直射日光に弱いためと乾燥防止のため、最後は上にビニールを掛け、約一か月寝かせ、一次発酵を促す。

その後、フォークを使って切り返しを行う。その切り返し作業は酸素を補給して、微生物・放線菌の増殖作用を促すためである。湯気が出て草や葉っぱには白い放線菌(黴)が一杯ついている。二次発酵である。

その際乾燥していれば水分も補給してやる。その後、半月ほどして二回目の切り返し作業を行う。三次醗酵である。

この作業は、辛く、腰が悲鳴を上げ、疼き始める。流石にこれでは長くは続けられないと思って、おんぼろのタイヤシャベルを買った。
当時の価格で30万円。収入の乏しい私にとっては大金であった。
これでフォークによる堆肥の切り返し作業からは解放されたものの、相変わらず、雑木林からの葉っぱ集めの作業は辛く、一年後、清水の舞台から飛び降りたつもりで、800万円のローンを借り、中型の破砕機を導入し、造園会社から剪定枝を引き取り、葉っぱと破砕屑により、堆肥材料も確保できるようになった。
機械化を進めたことによって、飛躍的に堆肥の量が増えていった。

圃場も3番の畑をあらたに借り受け、妻に頼み込んで退職金のうち、150万円を出してもらい、農業収入から細々と溜め込んできた100万円と合わせて、その隣接地に小屋と育苗ハウスを建て、ようやく農園らしくなってきた。

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この破砕機導入効果により、葉っぱや木屑の量が増やせ、そこに生息している微生物・放線菌が堆肥の中に増殖し、従来は3ヶ月以上要していたが、2ヶ月弱で堆肥が完成していった

 農園を開いて7年が経過していた。その頃、80人にお客様が増えていた。一回の配達当たり1,500円程度しか野菜は作れなかった。年間にして、5百万円ほどの農業収入であった。

自然循環農法を理解して頂けるお客様を掴むと、そこから友人達のご紹介をお願いし、何度も足を運び、小さな説明会をあちこちで開いた。

その頃から、農業志望の男の子を受け入れてきていた。手を取り、足を取り農業の基本を教えながら、手直しや自らの仕事もこなさなければならない。農業収入は農業経費や彼らの生活費に消えていった。しかも教えた若者達は、長くは続かない。今思えば、この頃が最も厳しかった。


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農業研修生達が玉葱を植えているところ。ベテランの女性達に比べて約1/3ほどのスピード。
畝揚げなどの鍬打ち作業では、真っ直ぐに進まず、手直しの連続であり、農園主を大いに困らせてくれる。手直しをしながら、自分の作業もしなければならず、私の方が給金をもらいたいくらいであった。

個人顧客だけではなく、飲食店などへの出荷を考え始めていた頃、福岡にてデザインや映像企画会社を営んでいる重藤さんと出会った。
農園に奥様と度々訪れてくるようになり、彼から、東京で飲食の開発の仕事に携わっていて、最近有名になりはじめているタンガと言うレストランのオーナーが「九州へ食材探しの旅に出る」と言った設定で、東京テレビの取材を受け入れてはくれないか、との話があった。
ここから、農園は新たな展開が始まる。