農園日誌Ⅱー「活きること」PARTⅡ

31.1.23(水曜日)晴れ、最高温度15度、最低温度3度

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              農園を初めて間もない頃の孫二人

 自然の中で育つと、子供の目はまん丸になる。今時の子供の目とは異なり、古き良き時代の姿です。今ではこの二人は小学4年生となっている。


「活きること」PARTⅡ

ともかく、生きていかねばならない。
当初の三年間は、わずか半反の一番の畑、(実験農園)と二番の畑(一反)で、年間50種類以上の野菜を生産しては、妻と二人でお客様作りをしていた。知人縁故を頼り一人又一人と口コミでお客様を開拓する日々が続いた。
農作業小屋も無く、ドラム缶に溜まった雨水で野菜の泥を落とし、家から持ってきた水道水で野菜を洗い、約30人のお客様に野菜を直接配達してきた。冬などはそのドラム缶に氷が張り、野菜の泥落としをせねばならず、手はすぐに感覚を無くしていった。
それでも、辛いと感じたことは一度も無かった。日が昇るのが待ち遠しく、早朝6時頃から畑に出て、日が暮れるのを惜しみながら家に帰る、やることは山ほどあり、そんな毎日が楽しかった。
土を如何に早く育てて行くか、美味しい野菜はどうしたらできるのか、季節毎の野菜の作付けのこと、如何にしてお客様に自然野菜を理解してもらうか、どうしたら賛同してくれるお客様を増やせるのか、などなど、休む暇も惜しんで考えて、かつ、働いた。
 
元の銀行の同僚からはきつくはないか?よく持つな?などと言われてきた。
「人は志があれば、生きられる」
融資業務に携わる中で、みな生き残るため、懸命に事業を営み、闘っていた。必死にあがいている会社を生き残らせるためには、融資を継続しなければならず、商品開発・販売ルートの開拓・組織改革など企業再生の闘いの連続となる。さらには、企業の事業再生への闘いのさなか、背中から槍や矢が飛んでくる。そんな銀行上層部の圧力をさばきながら、権力が持つ理不尽さと向き合わねばならなかった。
それは決して報われることの無い不毛の闘いの世界であり、嫌気が刺していた。
同じ闘い続けるのならば、疲弊していく地域を、農業を、有機農産物で活性化させることに残りの人生を掛けてみようと考えた。そこで闘うことは、少なくとも、生きていることを実感できるのではないか。
ところが、それは大きな思い上がりであった。自然循環農業の奥の深さと、農業を取り巻く環境や農業者の実態は、そんなに甘くは無かった。後ほど思い知ることになる。
 
このように、有機農業を始めた動機は、不純であり、天地の神々はさぞかし怒っていたことだろう。それでも地の神は、地域農業の再生を目指す私の心根を憐れみ、今の処は目を瞑ってくれているのだろう。

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わずか一反の畑に、一季節20種類以上の野菜が並んでいる。
配達するお客様には、毎週人参が、キャベツが届く。種類が少ないからだ。
それでも文句も言わず取り続けて頂いたお客様もいれば、すぐに止めてしまわれるお客様もいた。何とか30名ほどのお客様を繋いでいった。
家庭菜園のやや大型バージョンと言ったところか、何しろ、経験も浅く、一人農業では、
生産する野菜も限られてくる。

 
農園を開いても、草木堆肥による土作りを行いながら、そこで採れるわずかな野菜と地縁人縁を頼ったお客様だけでは、生きてはいけない。
そんな時、以前から相談に乗っていた二社が、銀行を退職することを聞きつけてSOSの依頼があり、その企業の商品開発から販売戦略や戦術、組織作りまで、改革を断行せざるを得なくなった。
相談役としての見返りとして、若干の収入を得た。
唯、そんな生き方を捨てて有機農業の道へ入った自分としては、有機農業への途は進まず、農産物販売によって、生計を立てていかねばならないと焦っていたら、やはりと言うか、事業が軌道に乗り始めると、経営者の支配欲やら同族の内紛やらで、結果として、その二社から追われることになった。
銀行員時代、会社再建を随分と手掛けてきたが、マーケティングに基づく経営改善策が功を奏して、事業が軌道になり始めると、必ずと言って、起こってくる「人の欲」であった。
それまでは、神様、仏様、佐藤様が裏返って、鬼畜の佐藤に変わってくる。あろうことか、佐藤は会社を乗っ取ろうとしているとまで言われたこともあった。
人の欲は、限りが無い。その欲を失くそうとすることは難しい。嫉妬心・権勢欲・支配欲、これらが親族などの心を捉え始めると、経営者は先祖帰りをしてしまい、再び会社を傾かせる。その繰り返しに嫌気が差して、斬った張ったの世界から退こうとしたのではなかったか。
とにもかくにも、私にとっては渡りに船で、ようやく本来の途に戻ってきた。
 
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少ない農地を最有効に使おうと様々な工夫を試みた。
これなどは、場所を占める南瓜の蔓を、支柱に登らせて育てようとした。
これは見事に失敗に終わる。重たい南瓜は支柱が持たず、さらには、地を這う蔓は、根を張り、土壌の栄養価を吸収する。支柱に登らせると、それができず、結果として南瓜の収量が激減した。

銀行在職中、数年間の農業白書を読み、物流コストの高さ・機械化ができない効率の悪い狭い農地等々による農産物の内外価格差と低い農業所得にあえぐ日本農業の衰退していく構造は分かっていた。
ただでさえ、生産量をこなさないと、生きていくことができない日本の農業者に、さらに、農協等の中間マージンが重く圧し掛かかる。生産した農産物の価格決定は全て流通が握っている。
何とか生きてはいけるだろうが、活きてはいけない。そんな夢の持てない日本の農業に多くの既存農家は、農業を止める道を選びつつある。地域の衰退・疲弊・過疎、そして地域の消滅である。
 
こんなこともあった。鹿児島から数人の農業者が訪れてきた。
もっとも、当時から年に1~2回は、各県から視察団がよく訪ねて来てはいるのだが・・・
鹿児島からの農業者は、焼酎原料となるさつまいもを生産している。それも数町歩単位で。
裏作には、大根なども育てているそうだ。
農業は気候に左右され、収入も実に不安定であり、さつまいも作りはかなりな重労働となり、価格も安い。大根は、豊作の時ほど、売る先が無くなるとのこと。
農業自立に向けた様々な御提言を申し上げたが、いまだに腰が上がらない。
既存の農家は、農協も含めた既存流通の、あるいは、大手の加工業者の求める規格野菜を如何に多く生産するかに、慣らされてきている。またそのほうが販売先の開拓もしないでよく、楽ではある。
消費者へ直接販売への道程は遠く、険しい。彼らにその労苦を強いることはできない。
 
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露地栽培・低窒素栽培の自然野菜は、害虫によるデープキッスの痕は、ヒセができて(傷を修復しようとするため)変形することも多く、そもそも、化学肥料・農薬及びハウス栽培ではないのだから、大きさはまちまちであり、規格サイズが揃うことは決して無い。
うちの野菜は、農協基準から行くと多くが規格外となってしまう。
「当たり前だろう」と言わざるを得ない。


農園発足当初から、農協も含めて流通への販売への途は絶っていた。
この大量消費・大量流通の社会の中では、農業者には、画一的・規格的農産物を求められている。つまりは、自分が工夫して、苦労して育てた他に優れた農産物であっても、既存の流通の仕組みではその価値は求められていない。
農業者が真に自立するためには、既存の流通を頼っていては、自分の思いは消費者へは伝わらない。
一般の野菜ではなく、健全で美味しく栄養価の富んだ農産物、つまりは、「差別化された農産物商品」を
作ることができれば、それが分かってくれる消費者が必ず居る。
もし、そのような価値のある野菜作りをグループで生産できれば、衰退していく農業・消滅しかかっている地域は復活できる。そう信じて疑わなかった。
元々、真に自立した農業を作ること、地域の活性化を有機農産物生産及び加工品の製造活動が、地域を蘇らせることになる。それが私が有機農業の途を選んだ原点であった。
 
それからが、私の苦悩と試行錯誤の闘いの始まりであった。