農園日誌Ⅱー「活きること」ーPART15ー飲食業界の実相

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         農園体験会ースナップエンドウの収穫体験風景

 世は正にハウス栽培・慣行農業の時代。有機野菜と言えども、畜糞主体の高窒素栽培を行っている。農産物市場は巨大流通が仕切り、大国の思惑が飛び交う。
この小さな農園から大市場に向けて「健全な野菜」作りを叫んでも届かない。
むかし野菜グループは、大海で漂う笹舟になってはいけない。
この日本の先人達が築き上げてきたむかしの農法、自然循環農業を折角復活させたのだから、未来へ繋いでいかねばならない。
ここに集まってきた小さな子供達の未来を明るいものにしていかねばならない。

 16年前に開いたこの小さな農園は、その当初から、消費者へ向けて市場啓発・啓蒙活動をし続けることが、宿命付けられていた。
真剣な顔をして、楽しそうに収穫をしているこの子等に、そして育てている親御さん達に、少しでも「健全な野菜とは?」を理解して頂ければと願う。


2014年9月10日 PART15ー飲食業界の実相

当時加盟していた「ぐるなび」と言う生産者とレストランを結びつける会社があった。
そこから大阪での商談会への招待があった。迷ったが、若いスタッフ達に
飲食店の野菜に対する認識とその実態を見させようと思い、受けた。
行き帰りともダイヤモンドフェリーを使い、総勢4名、船中二泊・大阪一泊の旅行となった。
このダイヤモンドフェリーは私にとって感慨深い会社の一つであった。

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 私が40歳頃、西大分で融資の窓口を担当しており、そこは不良債権の塊のような支店であり、その中に、4隻の船はいずれも老朽船であり、貨物車運搬を主な業務としており、個人顧客はついでに乗せているだけの収益も出せないフェリー会社があった。
新造船建造が最後の生き残りへの切り札ではあったが、資金が付かない。何しろ一隻当たり40億円、
4隻で160億円という途方もなく資金が要る。取り敢えず、窓口で相談は受けてはいたが、最初から諦め気味であった。
そんな中、真夜中に自宅に無線電話が入る。
「嵐です。本艦は唯今、来島海峡の真ん中です。エンジン停止状態にあります」(潮流の激しい処)
「それは大変です。大事故の危険がありますね。対処はできているのですか?」と聞くと、「それは何とかします。私が申し上げたかったことは、全ての船が、こんな切迫した状況です。当社社員及び家族300名のため、どうか、新船を作らせて下さい」と、必死の懇願であった。その重い声が私の心に響いた。
ちなみにこの嵐船長は剛毅沈着な操船で知られており、ダイヤモンドフェリーの顔でもあった。
ここから、嵐船長が私を東へ西へ走らせることになった。
 
先ずは収支計画の見直し、収益性が弱く、積載台数を増やすため貨物運搬事業にノンヘッドトレーラーを主力とさせ、さらに客室を増築し旅客運送事業も付加させることに改めさせた。(個人会員証も創設)
次は肝心の建造資金の調達、そのネックとなっているのが、当社を裏から仕切り、必ず横槍を入れてくる当時来島ドックの大株主。(経営の神様と言われた人物)その排除が必要となり、佐世保造船・函館造船(いずれも来島傘下)の責任者に直接面談し、協力を呼びかけた。
その折衝と並行して、同社への融資先であった当銀行と大阪銀行の協調融資を模索した。
そのため、大阪銀行の本店に数回出かけ、交渉するもはかばかしく進まない。
ふと思い立ったのが、あの懐かしい小塩支店長であった。聞いてみると今では東京審査部部長とのこと。
このままでは帰れない。夕方、侘しい安ホテルの一室から早速に東京本店へ電話を掛けてみた。
すぐに出てくれた。早口で経緯を話すと、「今の私にはそこには権限が無い。佐藤君は明日、朝10時に本店に行けるかね!」とのこと。
翌日、出向き、受付嬢に名刺を差し出すと、すぐに5階の審査部副部長へ繋いでくれた。
結果としては、惨敗ではあったが、その副部長の一言に心で泣いた。
「小塩さんから、このように指示されました。肩書に囚われことなく、真摯に聞きなさいと」
 
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 今や長い取引先となった福岡のフレンチ、ジョルジュマルソーのオーナーシェフから依頼があり、開店10周年の回を催したい、ついては、野菜を提供してくれないかと・・
それならと、スタッフ一同で、会場に赴き、このように焼き野菜をお客様に披露した。
かわいそうに、育ち盛りの若いスタッフ達は、高級肉のステーキやオマール海老の焼き物を横目で眺めながら、汗まみれとなっていた。
唯、お客様の焼き野菜への反応が良く、小さな声で、「肉より野菜の方が美味しかったよ」
と告げられ、心のバランスが保てたようだ。

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マルソーには、佐藤自然農園の野菜が週2回届けられ、しっかりとマルソーの顔となっていた。会の終わりには、いきなり、小西シェフから挨拶を促され、むかし野菜の紹介とマルソーの心意気などを述べたように思う。

休んではいられない。
以前、信託銀行(福岡)の融資担当から相談を受けて、とある会社の再建に一役を買ったことを思い出し、
調べてみると、大阪商船(ダイヤモンドフェリーの航路権を欲しがっていた)の株を2%保有していた。
早速その融資担当者の所属を調べてみると、東京本店の審査役となっていた。
直ちに、連絡を取り、私が作成した膨大な経営計画書類を送った。
これが凄いのだが、一週間で彼から連絡が入った。東京へ出向いてくれとの依頼であった。
訪れてみると、審査部長の部屋へ通され、鈴木審査部長からこのように言われた。
「貴方の作成した資料は、私には作れない。多分君の言う通りなのだろう。ところで、協調融資を希望しているとのことだが、何か存念はあるかね」そこで、私は、この新船の建造やこの会社の再建は当銀行では難しいと正直に話し、再建への支援を要請し、その道筋を伝えた。
「先ずは、経営を不安定としている来島ドックの会長を辞任させる。そのためには、佐世保・函館造船の協力が必要である。先ずは一隻の建造が急務であり、続く3隻の新造船建造には、貴銀行の積極的な関与とこの航路を欲しがっている大阪商船の将来的な資本・経営参加が望ましい」と向けてみた。
さらには、「当銀行はこの融資に積極的ではない。融資割合を貴銀行が増やしてくれたら、私が何とか本部審査部を説得します」と約束した。
その後、当銀行(実際は頭取)が約束を反故にしたり、揺さぶりを掛けられたり、様々な問題は発生した。その駆け引きは凄まじく切迫したものではあったが、何とか凌ぎきり、結果として協調融資が整い、ようやく1隻の新造船が出来上がった。嵐船長や鈴木審査部長との約束は果たした。
後日談ではあるが、鈴木審査部長から数回、取引先である上場企業の副社長に推薦するが、東京へ出てこないかとの誘いがあった。恩義は感じているが、バブルを引き起こしたのは間違いなく彼らである事を確信しており、丁重にお断りした。彼らの走狗になるつもりは無い。

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今日は農園の休日。と言うより、休みを取ってみんなで久住山に登った。
流石に農園で育っただけはある。小さな子供達も涙を流しながらも大人でもかなり苦しい山を頑張って登り、そして下山した。

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この日はあいにくのガスがかかり、みな、ずぶ濡れになりながら、厳しくそしてやさしい山の一日を満喫したようだ。降りてきてから、どうかまた登るか?と聞いたら、「今度は何時
登る」と・・・頼もしい子供達である。
皆で山の温泉に浸かり、帰りの車の中では正体無く深い眠りに就く。

 
数年後、本店の融資窓口で仕事をしていると、受付から連絡が入った。
佐藤代理(まだ代理のまま据え置かれていた)にお客様です。変なんですよ。真っ白な服を着ており、
佐藤さんに会わせてくれとのことです。
会ってみると、相変わらず大柄で謹直な顔に真っ白な制服と帽子、嵐船長の正装姿であった。
いきなり、敬礼をされ、「私は、本日をもって、退鑑致しました。佐藤さんにご挨拶に伺いました」と
これが彼の「礼の示し方」であった。思わず、ご苦労様でしたと答えた。
 
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大阪での野菜の商談会では、飲食店のシェフ達が集まり、野菜だけではなく加工品などの食材製造者も多く参加していた。
基より、新規の取引先が多くできるとは期待しておらず、野菜を販売したことの無い若い農園スタッフ達に、その実際を体感し、何かを学んでもらいたいという思いで参加した。
しかしながら、開催された場所が悪すぎた。「靴底をすり減らしても兎に角安いものを探す」と言った関西の人達の気質はよく分かっていた。関西の方には悪いが、農産物の実質価値などはやはり、無縁の土地柄なのだろう。当時、全国に120人を超える個人宅配先と10軒の飲食店を抱えていたが、そのうち、関西方面は3名しかいない。勿論、飲食店は1軒も無い。
こんなやりとりで終始した。
試食してもらった上で、「如何ですか?」「うん!美味しいね」「値段はいくらですか?」「〇〇です」と答えると、「へー!高いね」それだけで商談は終了。後の言葉が続かない。
中には、味すら分からない料理人も多く参加していた。一流との評判のある料理人ですら、さほど、野菜のことが分かっておられる人はいなかった。
若い研修生達には、コミュニケーションの仕方、理解してもらうことの難しさ、売ることの難しさ、など、学ぶことの多い一日でした。
改めて、今、彼らも定期購入して頂いているお客様の質の高さを思い知ったことだろう。
その感謝の気持ちを心に留めておいてもらいたい。

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