農園日誌ー社会的存在価値ーPARTⅦ-自然循環農法の実践

29.6.20(火曜日)曇り後雨、本日より梅雨入り、最高温度27度、最低温度20度

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                      農園は夏景色

 今日、待ちに待った梅雨入り。これだけ、雨を待ち望んだことは無い。
前日から雨を待っての畝作りを行っており、今日は、朝から全員で植え込みDAY。
一本葱・九条葱・茄子・オクラ・空芯菜・バジルの定植と人参の種蒔きなど。
雨が無かったため植え込みが遅れに遅れていたが、これでようやく夏を迎えられる。

 これまでの水遣りの日々から解放され、合羽を着ての夏野菜の支柱立て作業が待ってはいるが、スタッフにも、一時の休息が与えられそうだ。

それにしても、日本の四季はよくできている。夏の酷暑と乾季の前に必ず梅雨が入り
夏野菜の成長を促す。
降り続く雨は、畝を潰し、雑草は生い茂り、一部の野菜は腐ったりするが、雨が無いと、人参は発芽しないし、茄子も生姜も育たないし、胡瓜などは実を付けない。
この雨のおかげで、成長が停滞していたピーマン系野菜も息を吹き返すに違いない
もっともそうなってくれないと、明日からの出荷野菜はなくなるのだが・・

露地栽培では、農園主が主ではなく、天気がこの農園の主である。
この主の意向に従って、農人達は動かされている訳である。
もっと言えば、如何に人が知恵を絞ってこの野菜を作ってやろうとしても、この主の
意向によって、振り回され、出荷野菜は全て「天」が決めていることになる。

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             ピーマン系野菜の芽掻き作業と除草

社会的存在価値―PARTⅦ―自然循環農法の実践        
 
§5.端境期
 日本は四季の邦であり、旬菜と言う言葉がある。
四季折々の野菜が日本の食卓を飾る。但、これは九州の鹿児島・宮崎から始まって北海道まで日本列島を季節が廻り、各地から四季の野菜が消費者の食卓に届く。
しかもその多くが、ハウス栽培であり、露地ものと比べると約一か月は早く出荷される。
日本列島を縦断して生産された野菜がスーパー等に並ぶわけである。
 
一農園が、年間途切れることなく野菜をお客様に送り続けることなどできるわけがない、と言うのが農家の常識である。
その定説に当農園はチャレンジしていった。
むかし野菜の邑は、世界でも例の無い草木堆肥のみを使った自然循環農業を行っており、お客様からの信頼を頂いている。
そのため、グループ以外の処(農法が異なる)から、野菜や穀類を仕入れて売る訳にはいかない。
そこで当農園では、通年、安定供給するために、四季の野菜が移り変わる時季、必ずやってくる端境期(野菜が無い時季)を失くす工夫を試行錯誤の繰り返しの中で学んできた。
 
このことを季節に関係なくスーパーに並んでいる野菜を見慣れた消費者の皆様は知らない。           
  
 春(3・4月)は、キャベツやブロッコリー、レタスや葉野菜が、夏(6・7月)は、胡瓜・茄子・ピーマンが旬だと、思っておられる方が多いだろう。
実は、春野菜の代表であるキャベツやブロッコリーは厳冬期の1~2月に育苗ハウス内で種を蒔き、2月下旬~3月にかけて定植を行うため、春野菜の旬は5月となり、茄子などは4月中旬に定植するため、6月末~7月にかけて出始め、8~10月に旬を迎える。

さらには、九州では、10年ほど以前から気候の大きな変動で徐々に亜熱帯地方に見られる雨季と乾季の気候に変わってきている。
6~7月は雨季、8~9月中旬頃までは乾季がやってくるため、夏野菜の最盛期が9月後半から10月初旬頃に変わってきている。
しかも、秋と言う季節はほとんどなく、真夏からいきなり冬に変わってしまう。
 
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                    焼き灰を作っている処

隣の林が伐採され、大量の剪定枝が出た。早速に一週間かけてこの炎天下に
埃や灰を被りながらの焼き灰作りを行った。
決して覗かな風景ではなく、当農園では草木堆肥と共に不可欠な灰作りの作業である。焼き畑農業と原理は同じであり、草木灰はミネラル(元素)の宝庫である。

このように、実に不安定な気候の中で、露地栽培を行う農人は毎年、気候を読み、予測し、栽培計画を毎年毎年、変えている。
この繰り返しが当農園ではノウハウの蓄積となり、端境期を失くす工夫が身に付いていったと、言えなくもない。

最近は気候変動が著しく、露地野菜の旬も狂い始めており、季節の移り変わる際に必ず訪れていた端境期も乱れ始めている。
近年の露地栽培は、気象変化の読みや予測が不可欠であり、それを予知できるだけの動物的な感覚が必要となっている。

露地栽培の知識・ノウハウ・技術・などなどを、習得するのにどうしても

10年以上の経験を要することになる。


自然に順な自然循環農業を行う農人は、正に、神の領域に近づいているのかもしれない。