農園日誌ー研修生日誌

29.9.13(水曜日)曇り時々晴れ、最高温度30度、最低温度20度

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             今年はトウガラシの色が一段と綺麗

 赤唐辛子は、収穫してから天日で干し、クリスマス前後に毎年、ローリエの葉と
ともに、お送りしている。
この唐辛子は佐賀の呼子で、手持ち無沙汰にしていた露天商のおばあちゃんから、25年前に買ったもの。おそらくはその日の唯一のお客様だったようだ。
以来、ずーっと作り続けている。香り高くて美味しい。

農園は今、秋野菜の種蒔き、植え込みに大忙し。
この時季、夏野菜と秋野菜が混じりあい、圃場は実に混み合っている。

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(二番の畑)
中央の織布をベタ掛けにしているのは人参。二回目のまき直し。
発芽が思わしくない。水遣りの失敗。日々刻々と変っていく畑。

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(5番の畑)
トマトを撤去。次の日にはじゃがいもが植わっている。
右は酷暑を乗り超えた一本葱達。まばらになっているのは、耐えきらなくて落ちていったため。

 一昨日、同業の有機野菜生産農家である宇佐市の佐藤農園一行(親戚では無い)
が見学にやってきた。よく間違われて困っているとのこと。
そこも以前から懸案だった後継者問題に法人化という選択をしたとのこと。
うちと同様に4~5名のスタッフが働き、かつ、学んでいる。
大分県下では有機野菜生産農家として、ある程度の規模と質で踏ん張っているところは少なく、うちと佐藤農園くらいしか無い。共に憂える処である。

 国の施策も県の方策も口先だけで実態がほとんど無い。むしろ、官公庁から何ら提案も無く、地域の崩壊も農業後継者問題もひたすら悪化の一途であるにもかかわらず、危機感は感じていないらしい。
二人とも、年齢は同じで、体が以前のようには動かなくなっており、後継者の育成に望みを託してはいるものの、焦りの色は隠せない。

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夏野菜の剪定誘引作業を行っていると、蝶々が目にとまった。名は知らない。
羽をゆっくりと開いたり閉じたりを繰り返している。気を許して休んでいるのだろう。
そっとその場を離れる。



研修生日誌―窪田真伍
 
 2016、春、鹿児島の大学を卒業後、長野の農事法人に就職。レタスやキャベツなど高原露地栽培を体験してきた。量販店などに販売しており、当然に近代農業である。
「そこで育てたレタスを食べた時、味も香りもなく、こんな野菜を育てていたのかと愕然とした」とのこと。
自分は儲かる農業を勉強するつもりで、この法人を選んだのだが、何かが違う。
そんな中、偶々、佐藤自然農園のホームページを見て、農園主に直接聞いてみたくなり、メールを送った。
 
農園主からこのように言われた。
農業法人ではその販売先は当然のように流通の大手となる。ある意味、企業としては効率化を図るのは当然のことで、手間や労力をかけて生産することはできない。さらには、働いている人たちの将来をその企業が考えてくれるのだろうか?
私がその法人の社長であれば、単なる労働力としか見ないと思うよ。
何故なら、営利を目的とした農業法人であれば、当然に一番コストのかかる人件費を抑えていかないと、農業事業では利益は出ないのだから。
農業には、サラリーマンと言った概念は難しい。自然(野菜生産)とともに生きるということは、気候条件によって動かざるを得ず、生き物を相手にしているということは、野菜の成長とともに動かざるを得ず、人間の都合で仕事をするのではない。それが農業であり、農園主である。
古来から農業は家族労働であったし、ライフワークでもあった。
 
自分の目指す農業を欲するのであれば、自らの裁量で行える農園主を目指すしかないのではないですか。

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              腰のすわりも随分と様になってきた
 
ということで、窪田君は、佐藤自然農園の研修生となった。
最初は、自分が鍬の使い方からレイキの掛け方までこんなにできないとは思ってもいなかったようだ。
自分では全勤務先の農業法人でできるほうだと思っていたが、見事に打ち砕かれた。
始めて農業というものを見た感じだったのだろう。
水遣り一つにしても基本がまるでできていない。先ずは、野菜の生理を知らない。すべてが一からのやり直しの一年である。水遣り三年と言う。実は水遣りは野菜の成長によって、また、野菜の種類によってすべて異なる。
当農園のようにすべてが露地栽培であり、端境期も作られない、全国に数百人への直接配送であるため、年間百種類以上の野菜を生産し続ける難しさを克服するには、10年は要する。
その入り口に彼は今居る。
 
それを自覚していることが、彼の一番の美徳であり、土日の休みも返上して、まさに農業漬けの毎日を送っている。学ぶということは、先ずは己の至らなさを知ることから始まり、心の奥の自惚れを消し去り、己を虚しくすることにより、先輩から、師匠から、自然から学ぶことができるようになる。それが謙虚に学ぶということ。
今は先輩たちとの差が大きく見えるが、二三年もすると、同格に並ぶことができる。
農園主から見れば、それほど大きな差は見えない。
それだけ、当農園の自然循環農法は奥が深く、先人達の叡智は重たい。特にむかし野菜の邑の結いの仕組みや、年間を通して端境期を失くす生産体制作りや農業マーケティングまで含めた販促戦略(直販)及びその経営理念は難しいということである。
 
未来の農園主、そしてむかし野菜の邑の一角のリーダーを目指し、頑張れ真吾!と思うのである。