農園日誌Ⅱー「活きること」ーPART18ー

2019.5.22(水曜日)晴れ、最高温度27度、最低温度17度

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             古代小麦(弥富もち麦)をブレンドしたパン

 むかし野菜の邑の麦作りは4年目に入った。
土もほぼ出来てきており、品種改良をしていない古代小麦(原始一粒麦)の生産も軌道に乗り始めた。
そんな中、北九州の「いちかわ製パン」とのコラボにより、試作パンができた。
麦生産に入る中、いつかは、アレルギーや現代病に苦しむ子供さん達に抗体反応しないパンを作ってみたいとの思いがあり、ようやく市川さんとの出会いにより、それが実現した。
これから、試作を進め、さらに美味しい「食事パン」ができれば嬉しい。

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           左側の紫色をした麦が古代小麦(弥富)



・菓子パンやふわふわパンではなく、食卓パンとしてハード系とする。
・外はカリカリ、中はしっとり、水分多目に、ぱさぱさしない、もちもち感
 のある新しい食感。
・麦(穀類)の生命力を頂く、芳醇な味と香りのする素朴で美味しいパン作
 りとする。
・加えるのは塩と水で、バターや砂糖を極力抑える。若しくは加えない。
・小麦の味香りが引き出せる草木堆肥による自然栽培の麦を一定の割合で加
 える。
(南の香り(九州産強力粉)70%以外は、日本在来の古代麦(弥富もち
 麦)と九州原産中力小麦を30%加える)
・小麦アレルギーなどの現在病に苦しむ消費者(特に子供さん)も安心して
 食べられるものを目指す。

2016.12.3  麦作り(野焼き・畑作り・種蒔き)

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由布市挟間町古市の田圃3.5反を借り受け、先ずは、ブッシュとなっていた圃場の草を刈り、野焼きをする。
できるだけ、風の吹かない夕方を狙って火を付けた。それでも、新興住宅地の方からは、クレームが寄せられた。地域の方は流石に農業そのものを理解しており、荒れた田圃を借りてくれて感謝してくれていたのか、容認してくれただけではなく、「ご苦労様頑張って」と言って差し入れを頂いた。


 佐藤自然農園にて、大豆・麦・トウモロコシ・黍粟などの穀類生産を始めたのは、2012年頃からで
あった。当時は、実験栽培であったが、2014年、由布市庄内地区に4反の圃場を借り受け、無添加醸造味噌の量産を図るため、本格的な穀類生産に着手した。お米は平野さんの自然農米、大豆は草木堆肥の自然栽培、塩は海水塩(減塩)を使用し、完全なノン化学物質の醸造味噌と言えば、おそらくは、当農園しか無いであろう。味は、どうかって?それこそ愚問であろう。ある方は、もったいないと言って、出汁も取らず、この味噌だけで味噌汁を作っているそうだ。

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自然栽培での大豆の生産が雑草に覆われたり、長雨・干魃にたたられ、思うように生産量が増えないため、定期購入のお客様の熱い要望に応えられず、年に3~4回、しかも一回当たり、わずか300gしか送れないと言った状況が続いた

その後、由布市狭間町古市に、卒業生の後藤さんと田圃二枚、合計4反の圃場を確保し、麦・大豆の生産も本格化していった。
県の地域振興局に相談しながら、麦生産のノウハウを集めてきた。と言うのも、米国の農学博士が「小麦(パン)を食べるな!」と警告していたことや、以前は無かったはずの小麦アレルギーの多発に、何とかアレルギーに苦しむ子供達に救いの方法は無いのか?と考えていたからである。
何故、小麦アレルギーが多発しているのか?アレルギー反応は、異物が体内に入ってくるとそれを攻撃する抗体の過剰反応であることまではわかっている。ではその異物とは何なのか?小麦タンパクが幾つかの複合汚染によって、抗体が異物(危険)と判断していることにその要因があるのではないかと言う可能性が高いのである。
穀類生産中に畑に投与される除草剤・農薬・高窒素肥料・化学物質、あるいは、流通段階で投与されるポストハーベストの問題もあろうが、ハイグルテン(高タンパク)に持って行くために、何代にも亘って品種改良がなされ、事実上、ハイグルテン遺伝子に組み替えられたことも大きな要因になるのかもしれない。
そこで分かったことは、
先ず、遺伝子組み換えの小麦や大豆は、種子としては、まだ日本には上陸していないこと、日本在来の種子であれば、問題は無いこと。
 
※ここで言う遺伝子組み換えとは、こうである。
例えば、大豆生産(小麦も同じ)をする場合、先ずは、除草剤を撒き、雑草を抑える。
問題となるのは、大量な除草剤を使っても死なない大豆が必要となり、除草剤に耐える遺伝子を持った大豆の種子を作ることになった。これが除草剤に耐えうる遺伝子組み換え大豆である。
遺伝子組み換えだけが問題となるのでは無く、危険な枯れ葉剤を吸い込んだ大豆(麦)を食することにも大きな問題があると言うことです。
 
次には、米国では、小麦がハイグルテン(高タンパク)になるように品種改良を重ねていること。その点では、日本在来の麦は、安全では無いかということ。何故なら日本の気候ではハイグルテン仕様の強力粉
や逆に薄力粉の生産が難しいことにある。
但、麦は肥料食いであり、振興局や農業普及所では、肥料を多く撒き、必ず追肥もするように指導はしているが、中々、それに応じる農家も少ないと言う。理由は簡単である。兎に角、麦・大豆の生産価格は安いため、農家も割に合わないことはしない。

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        由布市庄内の4反の畑の麦踏みの風景

8人で踏んでも半日近くかかる。足は棒のようになり、冬だというのに汗だくになる。

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           黄金色に染まった麦畑

5月下旬から6月の初旬頃麦刈りとなる。梅雨入り前に刈り取ってしまわねばならない。
ここ庄内では、麦畑の風景はここだけと寂しい。
専業農家も一集落に一軒くらいしか無く、この長閑な田園風景は近い将来、消えて行ってしまうのかもしれない。

ここで問題であったのは、私は、穀類生産においても、化学肥料・農薬だけではなく、通常何処の農家でも使う除草剤も使いたくは無い。また、高窒素栽培の弊害は分かっており、あくまでも草木堆肥と言う低窒素栽培しか念頭には無かったことである。
その所長曰く、「佐藤さん、除草剤を使用しないと、草に負けてしまいます。また、先ずそんな低窒素栽培では、満足な麦は育たないですよ」と。
その時考えたことは、こうである。
「日本の先人達も麦は作っていた。むかしは窒素肥料も大量の畜糞も無かった。それでも立派に麦は育っていたはず。大豆と麦の二毛作では、広い圃場に、作ることに大変な労力が要る草木堆肥は大量に撒けないし、年に二回(大豆と小麦の二毛作)しか堆肥も撒けない。となると、先人たちが行っていたように、数年をかけて、土作りを行うしかない」と決意した。
 
唯、気になるのは、穀類価格の安さである。
      国際価格(kg)     国内価格   反当収量
大豆    33.5円   230円   160kg
小麦    17.3円    48円   420kg
 
内外価格の格差は比較することすら難しいほどの価格差がある。
これは、大量生産の国である米国・豪州と比較して、インフラ整備・流通コスト・国の支援(補助金)に圧倒的な差があり、結果として、穀物の内外価格差は数倍から10数倍の開きがある。
そのため、国内の穀類反当収入は、大豆で36,800円、小麦で20,160円にしかなりません。
通常米の反当収入が70,000円前後であるのに比べても如何に安いことか。
穀類価格の内外価格差と反当収入の安さから、国内の穀類がお米に集中していることがお分かり頂けると思います。
当農園では自然栽培・低窒素栽培のため、通常農業と比べてその生産量は約半分です。
価格をやや上げたとしても到底労力と手間に見合うものではありません。
必然的に、主食のお米以外の穀類は、加工品として消費者に届けていくことにならざるを得なくなる。
そう言うわけで、自然栽培による穀類生産の厳しい挑戦が始まった。蟷螂の鎌になるかもしれない。

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農園日誌Ⅱー「活きること」ーPART17ー現代有機野菜の課題点


2019.5.15(水曜日)晴れ、最高温度26度、最低温度17度

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4.28の農園体験会にて、約100余名の家族が種を蒔いた畝。
見事に不均一に、密集して蒔いて頂いた。その痕跡の残るサラダセットです。
農園主は覚悟の上で、片目を瞑って眺めておりました。

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       収穫体験の一コマ。スナップエンドウと小松菜の収穫風景

二班に分かれたので、混み合わず、みなさん、楽しんで頂けたようで、特に子供さんは、始めて本格的な農園での体験は、真剣な顔で、一日農業者になりきっていた。
おそらく、こんな農園体験は全国にも例が無いことでしょう。

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            これが我々が蒔いたサラダセットの畝です

よく見てみると、サラダセットの合間に、夏野菜であるピーマンが顔を覗かせている
夏野菜が生長する合間に春野菜が一緒に同居している風景。
肥沃な圃場を最有効に活用している。


「活きること」PART16
2015年5月5日     現代有機野菜の課題点
 
 欧州にはオーガニックと言う言葉がある。日本では有機農業である。
処が、日本の有機JAS規程に該当する農業では、世界基準であるオーガニックと言う定義には該当しないらしい。どうやら、日本基準の有機JAS野菜は信用されていないようだ。
この欧州から発したオーガニック(有機農業)は、ある事件から動き始めたようだ。
17世紀、硫安(窒素肥料)が発明され、欧州の農業生産力は飛躍的な進歩を遂げた。
欧州大陸は大きな河川が多く、大陸の地中は地下水脈で繋がっている。
窒素肥料が大量に撒かれ続け、硝酸態窒素に置き換わり、欧州全土の地下水系に流される。これは毒素であり、それから2世紀が過ぎ、緑(青)色の血液を持った子供が生まれた。
そのことに憂慮を抱いた欧州の学者たちが、窒素肥料農業(近代農業)に変わるものを探し、行き着いたのが、日本の農業を学ぶことであった。これが欧州のオーガニックの始まりである。
当時、日本では、里山から芝を刈り、田畑の草を刈り、わずかな畜糞(おそらくは鶏や農耕用の牛の糞及び人糞など)を加え、1~2年がかりで発酵させ、草木堆肥を作り、田畑に施肥して穀類や野菜を育てていた。私が言うところの自然循環農業を有史以来行っていた。
 
皮肉なことに、日本は、その頃から、農業先進国である欧州や米国の近代農業を政府の肝いりで推進していた。窒素肥料・農薬・機械化大規模農業です。農園主がまだ小さい頃はわずかながら、日本の草木堆肥は残っていたが、すぐに消滅し、近代農業の国に変貌していた。
やがて、欧州のオーガニックを真似て、消費者保護の名目で有機JAS規程が作られ、現在に至っている。
この段階で、日本のむかしながらの自然循環農業は一旦、途切れ、有機農業(JAS規程)として新たに登場することになった。

途切れたとお話ししましたが、実は古来からの自然循環農業を継続していた農家もわずかながら残っていたのですが、彼らは、国の定めた有機農業とは異なることにされてしまったからです。
最もその当時の有機野菜の主体は、牛糞や鶏糞にわらを混ぜた厩肥、若しくは、米糠・油粕・魚腸・海藻などを使うぼかし農法でした。
ここで日本の有機農業(広義)はその出発点から大きな矛盾を抱えてしまった。
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機械も無いむかしの人達は、畑から草を刈り取り(これはいまでも同じだが)里山から柴を切り出し、わずかな農耕用の家畜や人糞(発酵促進剤)をその上に振り掛け、1年がかりで草木堆肥を作っていた。
この木や葉っぱには、無限の微生物や放線菌が棲んでおり、地中深く根を下ろす木は、地球からバランスの良いミネラル分を摂取している。この微生物達とミネラル分が土を育てる
今では、破砕機で剪定枝を破砕し、草・牛糞(放牧)を三層に積み上げ、トラクターで混ぜ込み、タイヤローダーで積み上げ、夏場は、約1ヶ月ほどで草木堆肥を作ることができる。
それでも現在の農業者は、その手間を惜しみ、簡易な窒素肥料や配合飼料の入った畜糞を使い、野菜を育てている。
今までも一体何人の方にこの草木堆肥の作り方を教えたかしれないが、残念ながら、それを実践されておられる農家の人は居ない。

 
当農園は、むかしからの草木堆肥を使った有機農業(自然循環農業)を現在に復活させており、国の定めた有機農業(JAS規程)とは一線を画しております。それと区別するために「むかし野菜」と称している。今ではこの草木堆肥しか使わない農法は当農園しか残っていないようです。
当農園の自然循環農業は、剪定枝(葉っぱも含む)を破砕し、草を刈り取り、むかしのように発酵促進剤として、わずかな牛糞を使用している。
その牛糞は、肥育牛のように配合飼料(抗生物質・薬品が混入)を与えず、草を中心とした餌を与えた
繁殖牛(肥えると子を産まなくなる)のものを使用している。このことにより、圃場に微生物や放線菌を駆逐する抗生物質や化学物質を極力持ち込まないようにしている。
 
ここで知って頂きたいことは、オーガニック農業の先進国であるオーストリアやドイツなどは、緯度的には日本の北海道に当たる。そこでは、寒冷気候であり、害虫の発生は微々たるものであることを・・・
実際には、近年の温暖化によって害虫の異常発生が続いており、北海道と長野県の一部以外では、無農薬栽培は極めて困難になっている。有機JAS規程はその発足から大きな問題点を抱えていました。
 
有機JAS規程の骨子
肥料も農薬も化学合成していないものを使うこと。
有機物なら何でもよいこと。
店頭で売る際は、有機JASの認定を受けていない場合、有機野菜と表示してはならない。
但し、認定の当初は厳しい査定や検査が必要であるが、一旦取得すると、後は、書類査定で良いのです。
 
そんな経緯から、有機野菜は無農薬野菜と言った定説が出来上がってしまい、現実には季節によって異常発生する害虫被害により、完全無農薬では野菜ができず、建前と本音の板挟みになった有機農家のために、国は最近になって「有機無農薬」と言う表示を禁止するに至った。
 
欧州のオーガニックの多くは、消費者(市民)が現場の農業にも加わっており、契約栽培に近く、農園マルシェでも求められる。
日本の消費者が流通(スーパー・有機専門の流通)に依存するのとは大きな違いがみられる。
そのため、欧州では生産者と消費者の距離が近く生産現場を常に見ていることになる。
そう言ったことも、日本の有機野菜への信用度が薄いことに繋がっているのかもしれない。
 
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              ビーツの畝

生産者と消費者の距離感があり過ぎるのが日本の農業の現実です。欧州のオーガニック農場では、消費者は良く農園を訪れ、非常に日常的な接し方をしているようだ。これだと生産者と消費者の対話は進み、農業者がどのような考え方で野菜を育てているのか、消費者が何を望んでいるのか、常に対話ができている。
このビーツですが、一般的には、日本の消費者には馴染みが無い。実は、このビーツの赤い茎が甘くて美味しいのです。
当農園では10年以上前からビーツを育て、この茎の食べ方まで消費者にお知らせしてきた。その他にも、芽キャベツ・筍芋・エシャロットなど、滅多に市場に出回らない野菜も日常的に育て、お届けしている。
農園体験会も消費者との距離感を少しでも縮めるために、当農園は半ば義務としてその体験会開催をし続けている。


それでは、実際の有機野菜の現場を覗いてみよう。
有機栽培の場合、畜糞主体の肥料・米糠油粕主体のぼかし肥料・スーパーや家庭ごみなどのコンポスト肥料が主流であり、そこに稲わらを加えたりしている人もいる。欧米では畜糞肥料が主なようだ。
ここで大きな課題が発生している。
放牧牛や平飼い自家製飼料の鶏糞(実際にはほとんど無い)ならば、問題はないのだが、多くの畜糞は外国産の飼料を使っている。その配合飼料には畜舎で病気が蔓延しないために、病原菌を撃退する抗生物質や多種類の薬品が入っている。
これらの化学物質や抗生物質有機肥料として畑に撒かれると、本来は微生物や放線菌などによって土壌を育み土を健全に育てて行くのが持続可能な有機農業の筈が、土壌はケミカル物質に次第に汚染され、抗生物質によって微生物は駆逐されていくことになる。
とある有機農家を訪れてみると、土はごわごわで、団粒化は進んでいない。つまりは微生物層が土壌に育っていない。高校を卒業し、いきなり当農園で学んだ22歳の青年が、そこの土に触れ、「お父さん土が固いし、野菜は黒々としていますね」とすぐに気がついたようでした。
 
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             耕耘する前の土

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             耕耘した後の土

お分かり頂けるだろうか?これは草木堆肥歴16年の圃場の土です。
通算80余回ほど、草木堆肥を施肥し、土作りを行ってきた2番の圃場です。団粒化と言って、土が砂状に粒々になっており、鍬を入れるとさらさらとした感触で、草取りをすると、小指の力だけで草は抜ける。
有機物残渣や微生物の死骸が核になり、団粒化していく。草木堆肥で土作りを行うと、一年間でおよそ数センチしか土はできていかない。従って3年間を掛けて、10センチほど土が育っており、根の浅い葉物がようやくできる。
5年を経過すると、15~20センチの深さまで団粒化が進み、実物などの根を深く下ろす野菜ができはじめる。
この二番の圃場は、50~60センチの深さまで団粒化が進み、何を作っても良くできる。
所謂、保水力・保肥力を有し、空気も入りやすくなる理想の土となる。
当然に野菜はプラチナ級の味香り・旨み・歯切れの良い食感が得られる。
ちなみに、研修生として入った後藤君の圃場は、草木堆肥を降り始めて二年目に、高菜の種を蒔いてみた。彼は、期待していただろうが、二ヶ月経っても成長が遅く、ついには、高さ12センチにしか育っていないのにも拘わらず、早くも莟立ちし始めてしまった。
畑を借りる前、化学肥料や除草剤を使っていたのだろう。微生物は棲んで居らず、地力が無いせいだ。
他方で、7番の圃場は借りて二年目で葉物が立派に育った。この圃場は、5年間放置され、雑草に覆われており、草取りは大変だったが、微生物層ができており、二年目で早くも団粒化が見られた。


次に、硝酸態窒素の問題がある。
窒素肥料を多用している慣行農業(近代農業)、畜糞肥料(彼らは堆肥と呼んでいるが)を多用している有機農業では、いずれもその土壌は窒素過多に陥り易い。(私はこれを畜糞の科学肥料化と呼んでいる)
野菜は困ったことに土壌に窒素分があればあるだけ吸収しようとする性質を持っている。そして、成長し続けることになる。
野菜の体内に吸収した窒素分は、イオン化して体内に吸収し成長するが、余剰な窒素分は硝酸態窒素とし体内に留まる。こうして、硝酸態窒素の多く含まれた野菜は収穫され、市場に出荷される。結果として、消費者は、硝酸態窒素を常時摂取することになってしまう。
草木堆肥しか無かった時代のむかしの野菜(自然循環農業)は当然に低窒素(高炭素)栽培であった。

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低窒素栽培で育った野菜は、品種にもよるが、淡黄(緑)色をしている。
高窒素栽培で育った野菜は、深緑色をしていることが多い。

 
※低窒素栽培に於ける完熟野菜の仕組み
土壌に窒素分が多いと、野菜はその体内にミトコンドリアと言う成長酵素が無限に生まれてくる。
土壌に余剰窒素があれば、ミトコンドリアは生まれ続け、成長を促す。野菜には炭水化物とデンプンが多く蓄えられ、やがてある程度に大きくなると出荷される。慣行栽培野菜や畜糞主体の有機野菜を食べてみると、やや苦みを感じてしまう。これはデンプンの苦みです。
他方で、低窒素土壌で育った野菜は、土中の窒素分を吸収できなくなると(土中に窒素が切れる)、成長が止まり、体内に蓄えたデンプン質等を分解し、エネルギーに換え(イオン化)野菜は生き残ろうとする
その過程で生まれてくるのが糖質やビタミン類です。これが完熟野菜です。
さらに言えば、低窒素土壌でも野菜が生長できるのは、ミネラル分があるからです。ミネラル分は常に土中に補給し続けないと、土壌は次第に痩せてきます。
このミネラル分をバランス良く多く含んでいるのが、実は、土中深く根を張る木であり、葉っぱです。
マントルには地球創世過程で、ミネラル分が多く残っております。
この完熟野菜は、低窒素土壌でしかあり得ない仕組みと言うことになります。
 
私は自然循環農業を行っていて、いつも思うのは、この自然なやさしさと味香りや旨味の高さや歯切れの良い食感を感じていると、昔の人達は随分と美味しい野菜を食べていたんだな、と言うことです。
先人たちの叡智にも感心しております。

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              じゃがいもの花

じゃがいもの花が咲き揃う年は農作物の出来が良いのです。
久しぶりの良い季候に感謝、感謝です。


農園日誌Ⅱー「活きること」ーPART16ー遠くなる旬菜の記憶

2019.5.8(水曜日)晴れ後曇り、最高温度20度、最低温度10度

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                     じゃがいもの花

 今年は、昨年の夏以降から、最近の10年間で、温度の変動はあるものの、珍しく季節に順な天候となっている。
そのため、野菜のほとんどは順調に育ち、いや、むしろ育ち過ぎて、あまり気味に
推移している。近年に無く楽な農業をさせてもらっている。
このジャガイモの花も異常気象の続く年は、咲かずに収穫期を迎えてしまう。
花が咲いて3週間ほどで、新じゃがの収穫時期となる。

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               露地トマトの初期設定を終えた畝

 露地栽培のトマトは、枝を2~3本立てとし、南に(太陽)向かって斜め45度に傾けて全ての枝を剪定誘引する。長い枝で5メートルにはなる。そのため、この初期的な設定作業は、そのの善し悪しによって収穫量が決まる重要な作業となる。
これから露地トマトが終わる10月初旬まで、延々と芽掻き・剪定・誘引作業は続く。

「活きること」
2014年12月 遠くなる旬菜の記憶
 
冬の農園は白い世界へと変る。むかしはどこにでも見られたビニールトンネルに覆われた農園の冬景色
露地栽培の場合、11月下旬~翌年2月までの厳冬期には、霜害や凍結防止のため、あるいは、成長を促すため、どうしてもビニールトンネルのお世話になる。トンネルを張った後、暖かい日や雨の日は剥ぎ、氷点下になる日は閉めるなどを繰り返すなど手間が掛かる。今は施設園芸(ハウス栽培)全盛の時代、
ビニールトンネルが並ぶ風景は中々見られなくなった。
専業農家は減少の一途を辿っており、農産物生産における露地野菜の比率も下がり続けている。

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ビニールトンネル張り作業も約20年間、様々な遣り方で試行錯誤を繰り返し、今の形になった。孟宗竹を切り出し、8本に割き、四辺を削り、太い竹は支柱にし、その上にビニールトンネルを掛け、細い竹は抑えとして土に深く差し込む。両端は太い竹に巻き取り、土中に埋め込む。
こうすることによって、寒い日が続く時期は閉じ、雨の日や暖かい日は開けて雨や太陽に当ててやる。閉じたままだともやし状になり、まともには育たない。
冬の間は、この作業が続く。
 
苺は何時が旬?と聞かれても皆さんは冬と答える。トマトは何時が美味しいと聞かれると、夏とは答えない。トマト農家などは、秋にトマトの苗を定植し、(勿論加温ハウスです)冬に育て、春先の2月頃から出荷が始まり、6月には苗を撤去している。
6月頃になると、露地トマトの第一陣が赤く染まり始めるが、露地栽培トマトの難しさがすぐに出る。
トマトは元来が乾燥気候の中で育つものであり、水分を嫌う性質を持っている。
日本は、梅雨から夏の初めに掛けて、湿度が高く、雨が多い。その水に即反応して、大半は割れてしまう。
それでも、露地トマトは貴重品であり、季節に応じて美味しさは変化するものの、お客様には食べて頂いている。季節は進み、7月中旬、梅雨が明け、ギラギラした太陽が出始めると、酸味と甘さのバランスが良くなり、旨みが出てくる。
何より、太陽を浴び、雨風に耐えてきた露地トマトは酸味があり、味は濃く、鼻にツンとくるトマト特有の香りが命である。
トマトは、8月になると、太陽の光が強くなりすぎており、雨が降るとひび割れを起こしやすくなってくる。露地栽培のトマトはデリケートである。
時季になると、毎日収穫し、雨が降る前には、強めに採り、それでも割れたトマトは、トマトソースにする。割れたトマトの量も半端では無い。
 
昨今、甘さのみ追求したトマトが出ている。塩分ストレスを掛けて作る水耕トマトなどがその代表であるが、品種改良をし続け、甘さを強調した品種も多く出回っている。
現在、市場に出回っているトマトの99%がハウス栽培のトマトです。少しの雨でも割れたりひびが入る
トマトは、露地栽培ではできない、と言うのがその理由であり、ハウストマトは常識になっている。
それらのトマトを食べてみると、自然の寒暖差や太陽・雨・風等に晒されないため、味香りは薄く、トマト本来の酸味を感じない。調理用に使ってみると、酸味の無いトマトでは、美味しい料理をできない。
イタリアのシェフがどうして日本人は甘いトマトを求めるのだろうと首を傾げていた。

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            鈴生りになったトマト

 欧州や南米とは異なり、日本は梅雨があり、湿気が強く、イタリアの様には行かない。そのため、下葉は掻き取り、地面からの湿気を防ぎ、兎に角風通しを良くしていないと、多くのトマトは腐り落ちてしまう。
枝も密集を避けるため、芽掻き作業を怠ってはいけない。この管理だけでも大変な苦労と労力が必要となる。
それでも、当農園はあくまでも露地栽培にこだわる。理由は簡単です。
美味しいからです。昨今の甘いだけ、みてくれだけのトマトは作りたくない。
太陽の照りつける夏場になると、40度近くになる太陽の光と熱でトマトは焼けてしまう。
そのため、今度はある程度葉っぱを残していかねばならなくなる。
また、放射冷却の激しい日は、その朝梅雨だけで、トマトは割れてしまう。そのため、雨が降る、あるいは、晴天の日の前には、薄く染まり始めたトマトは収穫しなければならない。
露地栽培トマトはリスクの塊となるが、そんなノウハウを得るまでに10数年を要した。

 
可笑しな事に、マーケットでは、手間がかかり、成長も遅く、美味しいはずの露地野菜の方が、市場価格が安く、手間が掛からず、成長も早く、味の薄いハウス栽培の方が、市場価格が高いと言う奇妙な現象が起きている。ちなみに、当農園でも小さな育苗ハウスが一棟ある。偶々、空いた畝に葉野菜を育ててみるが、どうしても味香りが薄く、大味となり、スタッフの評判も悪い。
専業農家の人達はみな、見てくれの悪い露地栽培野菜の方が美味しいことを知っているのだが・・。
 
今では、農家から直送してくる野菜を販売していた八百屋さんが次々と廃業している。
彼らは、美味しい野菜作りに頑張っている農家の代弁者でもあり、旬菜や美味しい野菜のことに詳しく、消費者と対面販売を行ってきた。後継者がいないことや農協に依存しない農家が居なくなったことも大きな要因です。
キャベツ・白菜・ブロッコリーなどは露地栽培が現在でも主流であるが、その他の多くの野菜が施設農業に置き換わってきている。
そのため、旬菜と言う言葉自体が消えかかっている。施設栽培は、リスクも少なく野菜の生産回転率が高い。その代わり、設備は大掛かりにしないと、採算に乗りにくい。そうなると、小規模零細な農業では成り立たなくなっている。結果として農業の裾野は極めて狭くなっていかざるを得ない。農地も狭い零細小規模農業が主体の中山間地農業は壊滅状態となっている。そのことを最も危惧している。
 
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             大きな家庭菜園

 一つの畑でも一季節、10数種類の野菜が植わっている。家庭菜園を限りなく大きくしていくと当農園のスタイルになる。年間100種類以上、一季節30種類以上の野菜がそこには育っている。季節が重なる時季には、60種類以上の野菜が植わっている計算になる。
全ての野菜が微妙に育て方が異なり、この全ての野菜の管理ができるまでに少なくとも10年間の経験が必要であるが、それで全てを知り尽くしたことにはならないのが露地栽培です。
毎年同じように気候が移っていくわけではなく、去年成功した育て方は今年はもう通用しないのが露地栽培である。そのため、自然循環農業を営む農人は自然と畑と同化した動物的な嗅覚や経験が必要となる。
おそらくは、死ぬまで勉強の毎日となる。そのため、この農人は自然に対して謙虚な姿勢や心が必要になる。人は生きているのでは無く、自然の中で生かされていることを知っておかねばならない。


最近、野菜固有の味香りのしないものが増えてきている。種物屋さんは、品種改良を重ね、生産し易く、形の整う野菜を目指している。ハウス栽培生産者の支持を得られないからだと思う。
その結果、露地栽培に寄り添った野菜本来の味香りや美味しい野菜の種子が次々と廃盤になってきていることに危機感を覚えている。農業の裾野は確実に狭まっており、地域農業の再生への道程は遠い。
旬菜が一番美味しいと言われ続けてきたが、旬菜と言う言葉は今では追憶の世界となっている。
 
以前の専業農家は、如何にして土を肥やし、美味しい野菜作りを競い合っていたものだ。その頃の農家は自負心を持ち、良質な野菜作りに誇りを持っていた。
今はどうだろう?流通が求める規格野菜や見てくれの立派さを競い合い、如何に、売上を上げていくかを考えざるを得なくなっている。そこには、かっての農家のプライドは感じられない。
生産者が商品の良質さを追求しなくなったら、最早、商品では無くなり、単なる金儲けの「もの」でしか無くなる。
少なくともむかし野菜グループでは、農産物及びその加工品の健全性・良質性・美味しさを、消費者に胸を張って伝えていくことに、誇りを持ち、生産者としての尊厳を維持し続けるように教えている。
むかしながらの草木堆肥しか使わない自然循環農業は、他に例が無く、このグループだけなのだから。

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              秋の静かなる畑

 私は日本の四季の移り変わりが好きです。その中でも晩秋の安らかで静かな秋が最も好きです。冬の眠りに入る前の荘厳な秋の風景。
野菜達は、やがて来る極寒の足音を感じているのか、懸命に命を繋ぐかの様に、静かに成長している。


農園日誌Ⅱー「活きること」ーPART15ー飲食業界の実相

2019.4.30.(火曜日)雨、最高温度18度、最低温度13度

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         農園体験会ースナップエンドウの収穫体験風景

 世は正にハウス栽培・慣行農業の時代。有機野菜と言えども、畜糞主体の高窒素栽培を行っている。農産物市場は巨大流通が仕切り、大国の思惑が飛び交う。
この小さな農園から大市場に向けて「健全な野菜」作りを叫んでも届かない。
むかし野菜グループは、大海で漂う笹舟になってはいけない。
この日本の先人達が築き上げてきたむかしの農法、自然循環農業を折角復活させたのだから、未来へ繋いでいかねばならない。
ここに集まってきた小さな子供達の未来を明るいものにしていかねばならない。

 16年前に開いたこの小さな農園は、その当初から、消費者へ向けて市場啓発・啓蒙活動をし続けることが、宿命付けられていた。
真剣な顔をして、楽しそうに収穫をしているこの子等に、そして育てている親御さん達に、少しでも「健全な野菜とは?」を理解して頂ければと願う。


2014年9月10日 PART15ー飲食業界の実相

当時加盟していた「ぐるなび」と言う生産者とレストランを結びつける会社があった。
そこから大阪での商談会への招待があった。迷ったが、若いスタッフ達に
飲食店の野菜に対する認識とその実態を見させようと思い、受けた。
行き帰りともダイヤモンドフェリーを使い、総勢4名、船中二泊・大阪一泊の旅行となった。
このダイヤモンドフェリーは私にとって感慨深い会社の一つであった。

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 私が40歳頃、西大分で融資の窓口を担当しており、そこは不良債権の塊のような支店であり、その中に、4隻の船はいずれも老朽船であり、貨物車運搬を主な業務としており、個人顧客はついでに乗せているだけの収益も出せないフェリー会社があった。
新造船建造が最後の生き残りへの切り札ではあったが、資金が付かない。何しろ一隻当たり40億円、
4隻で160億円という途方もなく資金が要る。取り敢えず、窓口で相談は受けてはいたが、最初から諦め気味であった。
そんな中、真夜中に自宅に無線電話が入る。
「嵐です。本艦は唯今、来島海峡の真ん中です。エンジン停止状態にあります」(潮流の激しい処)
「それは大変です。大事故の危険がありますね。対処はできているのですか?」と聞くと、「それは何とかします。私が申し上げたかったことは、全ての船が、こんな切迫した状況です。当社社員及び家族300名のため、どうか、新船を作らせて下さい」と、必死の懇願であった。その重い声が私の心に響いた。
ちなみにこの嵐船長は剛毅沈着な操船で知られており、ダイヤモンドフェリーの顔でもあった。
ここから、嵐船長が私を東へ西へ走らせることになった。
 
先ずは収支計画の見直し、収益性が弱く、積載台数を増やすため貨物運搬事業にノンヘッドトレーラーを主力とさせ、さらに客室を増築し旅客運送事業も付加させることに改めさせた。(個人会員証も創設)
次は肝心の建造資金の調達、そのネックとなっているのが、当社を裏から仕切り、必ず横槍を入れてくる当時来島ドックの大株主。(経営の神様と言われた人物)その排除が必要となり、佐世保造船・函館造船(いずれも来島傘下)の責任者に直接面談し、協力を呼びかけた。
その折衝と並行して、同社への融資先であった当銀行と大阪銀行の協調融資を模索した。
そのため、大阪銀行の本店に数回出かけ、交渉するもはかばかしく進まない。
ふと思い立ったのが、あの懐かしい小塩支店長であった。聞いてみると今では東京審査部部長とのこと。
このままでは帰れない。夕方、侘しい安ホテルの一室から早速に東京本店へ電話を掛けてみた。
すぐに出てくれた。早口で経緯を話すと、「今の私にはそこには権限が無い。佐藤君は明日、朝10時に本店に行けるかね!」とのこと。
翌日、出向き、受付嬢に名刺を差し出すと、すぐに5階の審査部副部長へ繋いでくれた。
結果としては、惨敗ではあったが、その副部長の一言に心で泣いた。
「小塩さんから、このように指示されました。肩書に囚われことなく、真摯に聞きなさいと」
 
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 今や長い取引先となった福岡のフレンチ、ジョルジュマルソーのオーナーシェフから依頼があり、開店10周年の回を催したい、ついては、野菜を提供してくれないかと・・
それならと、スタッフ一同で、会場に赴き、このように焼き野菜をお客様に披露した。
かわいそうに、育ち盛りの若いスタッフ達は、高級肉のステーキやオマール海老の焼き物を横目で眺めながら、汗まみれとなっていた。
唯、お客様の焼き野菜への反応が良く、小さな声で、「肉より野菜の方が美味しかったよ」
と告げられ、心のバランスが保てたようだ。

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マルソーには、佐藤自然農園の野菜が週2回届けられ、しっかりとマルソーの顔となっていた。会の終わりには、いきなり、小西シェフから挨拶を促され、むかし野菜の紹介とマルソーの心意気などを述べたように思う。

休んではいられない。
以前、信託銀行(福岡)の融資担当から相談を受けて、とある会社の再建に一役を買ったことを思い出し、
調べてみると、大阪商船(ダイヤモンドフェリーの航路権を欲しがっていた)の株を2%保有していた。
早速その融資担当者の所属を調べてみると、東京本店の審査役となっていた。
直ちに、連絡を取り、私が作成した膨大な経営計画書類を送った。
これが凄いのだが、一週間で彼から連絡が入った。東京へ出向いてくれとの依頼であった。
訪れてみると、審査部長の部屋へ通され、鈴木審査部長からこのように言われた。
「貴方の作成した資料は、私には作れない。多分君の言う通りなのだろう。ところで、協調融資を希望しているとのことだが、何か存念はあるかね」そこで、私は、この新船の建造やこの会社の再建は当銀行では難しいと正直に話し、再建への支援を要請し、その道筋を伝えた。
「先ずは、経営を不安定としている来島ドックの会長を辞任させる。そのためには、佐世保・函館造船の協力が必要である。先ずは一隻の建造が急務であり、続く3隻の新造船建造には、貴銀行の積極的な関与とこの航路を欲しがっている大阪商船の将来的な資本・経営参加が望ましい」と向けてみた。
さらには、「当銀行はこの融資に積極的ではない。融資割合を貴銀行が増やしてくれたら、私が何とか本部審査部を説得します」と約束した。
その後、当銀行(実際は頭取)が約束を反故にしたり、揺さぶりを掛けられたり、様々な問題は発生した。その駆け引きは凄まじく切迫したものではあったが、何とか凌ぎきり、結果として協調融資が整い、ようやく1隻の新造船が出来上がった。嵐船長や鈴木審査部長との約束は果たした。
後日談ではあるが、鈴木審査部長から数回、取引先である上場企業の副社長に推薦するが、東京へ出てこないかとの誘いがあった。恩義は感じているが、バブルを引き起こしたのは間違いなく彼らである事を確信しており、丁重にお断りした。彼らの走狗になるつもりは無い。

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今日は農園の休日。と言うより、休みを取ってみんなで久住山に登った。
流石に農園で育っただけはある。小さな子供達も涙を流しながらも大人でもかなり苦しい山を頑張って登り、そして下山した。

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この日はあいにくのガスがかかり、みな、ずぶ濡れになりながら、厳しくそしてやさしい山の一日を満喫したようだ。降りてきてから、どうかまた登るか?と聞いたら、「今度は何時
登る」と・・・頼もしい子供達である。
皆で山の温泉に浸かり、帰りの車の中では正体無く深い眠りに就く。

 
数年後、本店の融資窓口で仕事をしていると、受付から連絡が入った。
佐藤代理(まだ代理のまま据え置かれていた)にお客様です。変なんですよ。真っ白な服を着ており、
佐藤さんに会わせてくれとのことです。
会ってみると、相変わらず大柄で謹直な顔に真っ白な制服と帽子、嵐船長の正装姿であった。
いきなり、敬礼をされ、「私は、本日をもって、退鑑致しました。佐藤さんにご挨拶に伺いました」と
これが彼の「礼の示し方」であった。思わず、ご苦労様でしたと答えた。
 
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大阪での野菜の商談会では、飲食店のシェフ達が集まり、野菜だけではなく加工品などの食材製造者も多く参加していた。
基より、新規の取引先が多くできるとは期待しておらず、野菜を販売したことの無い若い農園スタッフ達に、その実際を体感し、何かを学んでもらいたいという思いで参加した。
しかしながら、開催された場所が悪すぎた。「靴底をすり減らしても兎に角安いものを探す」と言った関西の人達の気質はよく分かっていた。関西の方には悪いが、農産物の実質価値などはやはり、無縁の土地柄なのだろう。当時、全国に120人を超える個人宅配先と10軒の飲食店を抱えていたが、そのうち、関西方面は3名しかいない。勿論、飲食店は1軒も無い。
こんなやりとりで終始した。
試食してもらった上で、「如何ですか?」「うん!美味しいね」「値段はいくらですか?」「〇〇です」と答えると、「へー!高いね」それだけで商談は終了。後の言葉が続かない。
中には、味すら分からない料理人も多く参加していた。一流との評判のある料理人ですら、さほど、野菜のことが分かっておられる人はいなかった。
若い研修生達には、コミュニケーションの仕方、理解してもらうことの難しさ、売ることの難しさ、など、学ぶことの多い一日でした。
改めて、今、彼らも定期購入して頂いているお客様の質の高さを思い知ったことだろう。
その感謝の気持ちを心に留めておいてもらいたい。

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農園日誌Ⅱー「活きること」ーPART13

2019.4.18(木曜日)晴れ、最高温度20度、最低温度9度

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 今年の麦は良い。この圃場は5年前、穀類専用として水田を畑作転換したもの。
その間、麦・大豆・とうもろこしと年間二毛作を繰り返してきた。
年間2回の草木堆肥施肥とした計算で行くと、すでに8~9回は堆肥を振っていることになる。
去年は背丈が伸びず、堆肥量も少なく、種を撒きすぎて、失敗しているだけに、今年は堆肥量も増やし、種を撒いてきた。
元来、低窒素栽培となる自然栽培のため、肥料分を好む麦の生産には向いていない農法であるが、今年の出来はどうだ。ようやく、思っていた姿に成長した。
その意味では、感慨深いものがある。土が育ってくれたのだろう。

ロシアから来たナターシャは、ここに連れてくると、「オー!ビューティフル」と、嬉しそうな笑顔が出てきた。


2014年2月25日―地域農業の高齢化と後継者不在

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永年、農業を営んできたある男性(80歳前後)がこのように私に伝えた。
今日は誠に良いものをみせてもらった。これなら、私達の未来の農業は繋がっていっただろう。如何せん、私達も歳を取り過ぎた。息子達は農業を嫌ってみな街に出て行ってしまった。
後は、集落が残ってくれることを祈るしか無いが、私達にはなにもできない。

大分県の佐伯振興局の職員が農業視察団(地域の農業者)を連れて当農園を訪れてきた。
草木堆肥作りから自然循環農業及び高集約農業まで、農園を回りながら一通りの紹介を行う。
残念ながら、皆さん、高齢で今更、新たな形の農業に進むことは難しい。
彼らは、こう言って帰って行った。
「もう10年でも早く、貴方に巡り会っていたら、我々でもできたでしょう」と・・
すでに体力と気力は尽きようとしていた。子供達は皆、きつく、未来の描けない農業を嫌って出て行ってしまった。
日本では古来から、労力を掛けて、狭い農地しか無い農地を最大限に回転させる高集約型農業を行ってきた。そんな日本の実情に合わせて、高集約型農業に見合った付加価値の高い有機農産物などの商品化によってしか、中山間地の農業は存続できない。
にもかかわらず、日本の中山間地の実情を無視して、欧米の大規模農業を模倣し、大規模化・機械化などを推進するとしてきた日本の農業政策の無為無策が地域の疲弊とやがてくるであろう消滅を招いた。
農業後継者を失い、地域から子供の声が消える。
現在も、そして今後も政府は日本の農業及び地域の未来は全くと言って描こうとしていない。
強い国作り・大企業の支援など富国強兵の施策によって、上から下へ水が降りてくるなどと、グローバル化が進む時代ではあり得ない、時代錯誤の政策が未だに進められている。そして、地域は切り捨てられていく。
諦め顔で、去って行く彼らの小さな後ろ姿をみていると、憤りすら覚えてしまった。
 
「高集約化農業」

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 如何に安全で栄養価の高い美味しい野菜を作り続けたとしても、流通の段階では、何も評価を受けない。むしろ、不揃いで虫食いの痕の残る規格外商品として、弾かれてしまう。
そのため、農園主は、敢えて困難な消費者直接販売の途を選んだ。この途ならば、消費者と対話しながら販売ができる。
但、いつも同じ商品ばかり届けていては、消費者も永くは続かない。
結果として、一シーズンに30~40種類、年間100種類を越える野菜を作り続けることが必要となった。
農業ならば必ず訪れてくる端境期にも野菜を切らすことはできない。そのための工夫と努力は、かなり難しいことではあった。


日本の農業は元来が狭く肥えた農地を最有効に使用する高集約化農業であったが、農協などの指導は国の指針に基づいて大量生産・単一栽培が基本になっており、機械化・粗放農業を示唆してくる。
草木堆肥を施肥し続けた土壌は、年々成長し続けており、肥えていきます。日本の先人達は、何代にも亘って、農地を育ててきた。そんな豊かな土壌は、生命力に満ち溢れており、豊かな農産物を生み出してくれる。
私は、そんな圃場を年間3~4回転させて、四季折々の野菜達を育ててきた。さらに野菜の種蒔きは密集栽培を基本にしている。
通常(農協の指導要領)は、筋播きや点播きなどで、成長の悪い幼苗を間引き、より大きな野菜を作ろうとしている。これが実は間違っていることに気が付いた。
当農園では、ある程度密集した状態を作り出し、大きく育った野菜から間引き出荷をしていく。すると、次に大きく育った野菜から二番出荷として、順々に間引き出荷を続ける。最後は、漬物や自家消費の野菜として活用している。無駄の無いやり方を採用している。
野菜は、ものにもよるが、密集植えをすると、互いに競い合って大きくなろうとする。ゆったりと植えてやると、逆にひ弱に育ってしまう。人間社会と同じなのですね。
その例を大根で説明しておきます。
太めの筋を引き、その筋の中に、大根の種を千鳥状に約7センチ程の間隔で筋蒔きする。すると、競い合って育ち、より大きいほうを一番出荷とし、次に大きいほうを二番出荷とします。この頃、大きく育ち切らないより小さめの大根を間引き、甘酢漬けや糠漬けにします。残ったものを三番出荷とし、ほとんど全ての大根が活用できることになります。これが農業者の知恵です。

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密集栽培の野菜は、先ずは大きく成長したものから出荷を始めると、次の大きな野菜がさらに生長してくれる。それを繰り返して、概ね、一畝の野菜が3~4段階で出荷が可能となる。
さらに、野菜を途切らすことのないように、一種類の野菜を二週間おきに、ずらして、4畝程度種を蒔き続けねばならなくなる。

単一栽培は、気候変動のリスクが高くなった昨今では、農業者を大いに苦しめてしまいます。
出来過ぎた場合は、大暴落し、出荷する作業を考えたら、逆に損になります。不作の年は出荷量が激減し、いずれも、生活を維持することすらできなくなります。
当農園では少なくとも一シーズンに20~30種類の野菜を育てており、年間通して100種類を超している。リスク分散を図ります。
 
そのためには、安定的に出荷を受けてくれる消費者層が必要となってきます。
当農園では消費者への直接販売を基本にした販売戦略・戦術を立て、市場開拓をし続けております。
さらに、直接販売のためには、有機農産物及びその加工品の圧倒的な商品力が必要になります。
「まあ、美味しい」ではダメなのです。「毎回同じ商品」を送っていてもダメです。
草木堆肥しか施肥しない世界でもおそらくはオンリーワンの農法であり、「糖質・ビタミンに富み、歯切れ良く、味香り高く、旨みのある」存在感のある栄養価の高い農産物を目指しており、四季折々の多彩な旬菜を生産し続けねばなりません。
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「グループ営農」
日本の農業は、一貫して米作中心でした。政府が機械化を奨励し、一人農業ができるようになってきました。その反面、村落単位で永らく行われ続けてきた共同作業、ここでは結いの仕組みが消えていきました。しかしながら、米価は下がり続け、米作だけでは地域農業は維持できなくなってしまい、先の目途も立たない、きつい農業を嫌って農家の後継者である子供たちは、その村落から離れてしまいました。
今では、地域が消えていくのを唯待つしかないわけです。
米作以外の麦・大豆などの穀類価格は内外価格差があまりにも大きく、生産してもわずかなお金にしかなりません。狭い農地での畑作は機械化が難しく、手作業の比率が増えてしまいます。
いずれにしても、一人農業では、心が折れてしまいます。
 
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グループ営農の難しさは、公平な分配機能にある。
当グループは、未だ試行中ではあるが、ほぼその分配システムは完成に近づきつつある。今では、他人の畑での作業に、何の抵抗もなく、皆等しく汗を流しており、それに疑問を感じている者は居ない。
彼らは、一人農業では続けていくことができないと分かっているからである。


 当農園では、現在、4人の青年が働いており、若い主婦も数人おります。ここでは、それぞれが農業者として独立し、「共同作業」「共同加工」「共同出荷」を行っており、その中心に「()むかし野菜の邑」があり、グループを形成しております。現在版、「結いの仕組」です。
農業は本来的には家族経営です。時間外勤務も就業規則もありません。夜の夜中、遅霜が降りるとわかれば、家族全員畑に出ます。農業では、不当労働と言う概念すら存在しません。
農家は個々が頑張った分の収入を得られる独立採算とし、しかも、相互扶助可能な共同作業を行う仕組みが必要となります。
むかし野菜の邑グループは未だ完成形ではありませんが、少なくとも、自然循環農業の元となる草木堆肥施肥の農法は共有化し、農産物の「質の共有化」と「品質の高さ」を維持しなければ、圧倒的な物流を有する既存流通には対抗できません。消費者の高い支持を得ることが絶対的な条件となります。
例えば、当農園のように100種類の多品目生産が無理だとしても、各農家が年間20種類の品質を揃えた野菜を生産し、その農家が5軒揃えば、野菜100種類にすることは可能です。

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農園日誌Ⅱー「活きること」ーPART13

2019.4.18(木曜日)晴れ、最高温度18度、最低温度9度

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麦作りを始めて4年目、草木堆肥施肥して、5年目の圃場に今までより多目に堆肥を振り、ようやく思っていた通りの麦が出来そうな予感がする。出来は頗る良い。
麦類は肥料を好む穀類であり、低窒素栽培である自然栽培では難かしいため、
年月を掛けて草木堆肥を降り続け、土を育てるしか無かった。
それだけに、手応えを感じた麦作りでした。

ロシアから来たナターシャ、「オー!ビューティフル」と・・・満面の笑顔。

2014年2月25日―地域農業の高齢化と後継者不在

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大分県の佐伯振興局の職員が農業視察団(地域の農業者)を連れて当農園を訪れてきた。
草木堆肥作りから自然循環農業及び高集約農業まで、農園を回りながら一通りの紹介を行う。
残念ながら、皆さん、高齢で今更、新たな形の農業に進むことは難しい。
彼らは、こう言って帰って行った。
「もう10年でも早く、貴方に巡り会っていたら、我々でもできたでしょう」と・・
すでに体力と気力は尽きようとしていた。子供達は皆、きつく、未来の描けない農業を嫌って出て行ってしまった。
日本では古来から、労力を掛けて、狭い農地しか無い農地を最大限に回転させる高集約型農業を行ってきた。そんな日本の実情に合わせて、高集約型農業に見合った付加価値の高い有機農産物などの商品化によってしか、中山間地の農業は存続できない。
にもかかわらず、日本の中山間地の実情を無視して、欧米の大規模農業を模倣し、大規模化・機械化などを推進するとしてきた日本の農業政策の無為無策が地域の疲弊とやがてくるであろう消滅を招いた。
農業後継者を失い、地域から子供の声が消える。
現在も、そして今後も政府は日本の農業及び地域の未来は全くと言って描こうとしていない。
強い国作り・大企業の支援など富国強兵の施策によって、上から下へ水が降りてくるなどと、グローバル化が進む時代ではあり得ない、時代錯誤の政策が未だに進められている。そして、地域は切り捨てられていく。
諦め顔で、去って行く彼らの小さな後ろ姿をみていると、憤りすら覚えてしまった。
 
「高集約化農業」

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当農園では、一シーズンに最低でも40品目以上の野菜が育っている。一つの圃場(約一反)でも、10~15品目の野菜が植わっている。家庭菜園の大型バージョンと思ってもらえば、分かり易い。
流通を介さず、全て定期購入顧客への直接販売を基本としているため、一農園でも年間100種類以上の野菜が必要となる。端境期に野菜が無いということはしない。そのための工夫、例えば、二週間置きに、同じ野菜を一畝ずつ時間差を設けて種蒔きを行う。野菜を切らさないためには、同じ野菜が時季をずらして4~5畝あると考えてもらいたい。
さらに、寒い時期にはトンネルを掛けたり、剥いだりを繰り返し、成長時期の調整をする。


日本の農業は元来が狭く肥えた農地を最有効に使用する高集約化農業であったが、農協などの指導は国の指針に基づいて大量生産・単一栽培が基本になっており、機械化・粗放農業を示唆してくる。
草木堆肥を施肥し続けた土壌は、年々成長し続けており、肥えていきます。日本の先人達は、何代にも亘って、農地を育ててきた。そんな豊かな土壌は、生命力に満ち溢れており、豊かな農産物を生み出してくれる。
私は、そんな圃場を年間3~4回転させて、四季折々の野菜達を育ててきた。さらに野菜の種蒔きは密集栽培を基本にしている。
通常(農協の指導要領)は、筋播きや点播きなどで、成長の悪い幼苗を間引き、より大きな野菜を作ろうとしている。これが実は間違っていることに気が付いた。
当農園では、ある程度密集した状態を作り出し、大きく育った野菜から間引き出荷をしていく。すると、次に大きく育った野菜から二番出荷として、順々に間引き出荷を続ける。最後は、漬物や自家消費の野菜として活用している。無駄の無いやり方を採用している。
野菜は、ものにもよるが、密集植えをすると、互いに競い合って大きくなろうとする。ゆったりと植えてやると、逆にひ弱に育ってしまう。人間社会と同じなのですね。
その例を大根で説明しておきます。
太めの筋を引き、その筋の中に、大根の種を千鳥状に約7センチ程の間隔で筋蒔きする。すると、競い合って育ち、より大きいほうを一番出荷とし、次に大きいほうを二番出荷とします。この頃、大きく育ち切らないより小さめの大根を間引き、甘酢漬けや糠漬けにします。残ったものを三番出荷とし、ほとんど全ての大根が活用できることになります。これが農業者の知恵です。
 
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単一栽培は、気候変動のリスクが高くなった昨今では、農業者を大いに苦しめてしまいます。
出来過ぎた場合は、大暴落し、出荷する作業を考えたら、逆に損になります。不作の年は出荷量が激減し、いずれも、生活を維持することすらできなくなります。
当農園では少なくとも一シーズンに20~30種類の野菜を育てており、年間通して100種類を超している。リスク分散を図ります。
 
そのためには、安定的に出荷を受けてくれる消費者層が必要となってきます。
当農園では消費者への直接販売を基本にした販売戦略・戦術を立て、市場開拓をし続けております。
さらに、直接販売のためには、有機農産物及びその加工品の圧倒的な商品力が必要になります。
「まあ、美味しい」ではダメなのです。「毎回同じ商品」を送っていてもダメです。
草木堆肥しか施肥しない世界でもおそらくはオンリーワンの農法であり、「糖質・ビタミンに富み、歯切れ良く、味香り高く、旨みのある」存在感のある栄養価の高い農産物を目指しており、四季折々の多彩な旬菜を生産し続けねばなりません。

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「グループ営農」

日本の農業は、一貫して米作中心でした。政府が機械化を奨励し、一人農業ができるようになってきました。その反面、村落単位で永らく行われ続けてきた共同作業、ここでは結いの仕組みが消えていきました。しかしながら、米価は下がり続け、米作だけでは地域農業は維持できなくなってしまい、先の目途も立たない、きつい農業を嫌って農家の後継者である子供たちは、その村落から離れてしまいました。
今では、地域が消えていくのを唯待つしかないわけです。
米作以外の麦・大豆などの穀類価格は内外価格差があまりにも大きく、生産してもわずかなお金にしかなりません。狭い農地での畑作は機械化が難しく、手作業の比率が増えてしまいます。
いずれにしても、一人農業では、心が折れてしまいます。

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この圃場は、佐藤自然農園で研修を終えて、独立した後藤さんの圃場。
そこで作業をしているのは、みな、独立した農園主達や研修生達であり、他人の圃場に何の違和感も無く、等しく汗を流す。みな、明日は、○○さんの圃場で作業をすることになり、そのことを当然と受け止めている。
一人農業がどれだけ捗らないか、心が折れるか知っているからである。
 
 当農園では、現在、4人の青年が働いており、若い主婦も数人おります。ここでは、それぞれが農業者として独立し、「共同作業」「共同加工」「共同出荷」を行っており、その中心に「()むかし野菜の邑」があり、グループを形成しております。現在版、「結いの仕組」です。
農業は本来的には家族経営です。時間外勤務も就業規則もありません。夜の夜中、遅霜が降りるとわかれば、家族全員畑に出ます。農業では、不当労働と言う概念すら存在しません。
農家は個々が頑張った分の収入を得られる独立採算とし、しかも、相互扶助可能な共同作業を行う仕組みが必要となります。
むかし野菜の邑グループは未だ完成形ではありませんが、少なくとも、自然循環農業の元となる草木堆肥施肥の農法は共有化し、農産物の「質の共有化」と「品質の高さ」を維持しなければ、圧倒的な物流を有する既存流通には対抗できません。消費者の高い支持を得ることが絶対的な条件となります。
例えば、当農園のように100種類の多品目生産が無理だとしても、各農家が年間20種類の品質を揃えた野菜を生産し、その農家が5軒揃えば、野菜100種類にすることは可能です。
 



農園日誌Ⅱー「活きる」ーPART13ー自然の試練

2019.4.10(水曜日)雨後雲り、最高温度18度、最低温度6度

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                      夏野菜の植え込み

春じゃがの畝の横にトマトの苗を定植。この時季は、春野菜と夏野菜が同居する。
出荷中及び生育させる春野菜と、7月以降に収穫となる夏野菜による圃場の争奪戦になってしまい、例年、畝を空けるのに苦労する。
さらに早春は遅霜の心配をしなければならず、気が抜けない。4.13(土)は最低温度4度の予報が出ている。


2014年2月13日―自然の試練

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            2.13の夕方から雪が積もり始めていた

日暮れから降り続ける雪で農園はうっすらと白く覆われる。
そのまま夜を迎えて、明くる朝、農園に出てみると、無残にも湿った重い雪に押しつぶされたビニールトンネルの残骸の山となっていた。このままでは、野菜は潰されてしまう。
スタッフ全員で覆い被さった雪を除去しながら、新たな竹の支柱を差し込み、応急処置をして回る。手足は感覚を無くし、腰は軋む。復旧作業に丸一日を要し、みな、へとへとになっていた。
前日の夜にでも農園に出て雪の除去作業をしておけば良かったと悔やむ。
九州でも年に2回程度は、こんなことも起こる。それ以降は、月が積もる度に、スタッフ達はビニールトンネルに積もりかかった雪を払うようになった。

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翌朝、圃場に出てみると、約45張りのビニールトンネルは完全に潰れていた。このままでは2~3月出荷予定の野菜が無くなってしまう。


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スタッフ全員で、大急ぎの復旧作業。朝から夕方まで重い雪と竹の支柱との格闘が続いた。

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大人達の懸命な作業の中、子供は元気に雪に興じて飛び回る。

自然によってもたらされる被害は多い。
台風到来によって、全滅状態になったのが二回、半滅に近い打撃を受けたことは数知れない。
夏野菜の支柱が根元から折れ、吹き倒され、重たい茄子を引き起こし、ほとんどの枝が折れ、葉っぱや実は千切れている。「頑張れ」と野菜に語りかけながら復活を願う。
ある時は、全ての圃場から野菜が消えていたこともあった。あちこちに残骸が散らばる風景が目に飛び込む。しばし、呆然と佇む。
すぐに片付けに入る。まる二日を掛けて片付けをしながら、30種類の野菜の種蒔きの計画を練る。耕し直してまた一から種を蒔く。悲観している暇は無い。
 

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氷点下3度以下が連日続き繊維が凍傷にかかり野菜が半滅した冷害・一カ月半一滴の雨も降らず砂漠化した圃場に野菜が立ち枯れる干魃・一週間連続した集中豪雨と一か月間連続の雨と曇天により根腐れを起こした野菜など、毎年続く異常気象により、三ヶ月間、休園を余儀なくされ、収入ゼロが続くことも多々あった。
こちらも黙って野菜が痛めつけられるのを見ているわけではなく、旱魃の度に、軽トラックにタンクを積み込み、一か月間、10カ所の圃場に水遣りをし続ける。遅霜の際には、夜中でも織布を掛けて回る。
豪雨が続く時には、合羽を着て、水路を掘り、水を畑から逃がす。台風到来の度に、トマトなどに紐掛けをし、支柱を補強する。それでも救えない場合も多い。
それら自然の理不尽さの度に、めげていては、どうしようもない。
自然と黙々とひたすら向き合うのが農業であり、こんなこともある!過ぎたことはすぐに忘れる!
自然の中で生かされている、それが農業であると思うことにしている。

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「持続可能な農業」
 有機農産物とその加工品作りによって、疲弊し、やがて消滅していく地域を再生できるのではないか、と始めた有機野菜生産農園は、その遠大な地域再生への一歩、足がかりになると考えていた。
実験農園から始めた様々な肥料を使った有機栽培は、自然の織りなす自然循環のシステムから眺めると、人の思い上がりでしか無かったことに気がついていた。
有機物しか使わない、化学合成したものは使わない有機栽培」と言った有機JASの概念は、所詮は人が作り出したものでしか無く、有機物なら何でもよいと言った暴論の大きな矛盾に気がついていたということです。
化学合成した肥料や農薬(抗生物質も含む)もなかった時代に、日本人の先人達が営んできた土作りの歴史そのものが自然循環農業であったと気づかされた。

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              草木堆肥作り

刈り取ってきた草を10センチに積み上げ、その上に放牧牛の牛糞を発酵促進剤として3センチの厚さに敷き、さらにその上に破砕した剪定枝と集めた葉っぱを厚さ5センチに三層に重ね、トラクターのロータリーを利用して混ぜ込み、タイヤローダーによって高さ約2メートルに積み上げる。
約三週間に二回切り返しを行い、酸素と水を補給して完熟一歩前の草木堆肥が出来上がる。
微生物と放線菌がビビットに活きている状態の堆肥を直接圃場に振っていく。
完熟しては意味が無く、もはや肥料にしかならない。その微生物達が土壌を掘り起こしてくれる。この堆肥作りを一ヶ月に二回行う。

土壌には、木・草・動物の死骸(有機物)を分解してくれる放線菌や微生物が棲んでおり、豊かな自然を維持している。それこそが自然循環のシステムであり、本来の有機農業であったのです。
但し、自然そのものに任せていては、大量に生産しなければならない現在の農業では、無理があり、そうなれば、どの程度人の力を加えていけば野菜等ができていくのか?土を再生していけるのか?自然を損なわないで農業生産が続けられるのか?それが大きなテーマであっただけでした。
結果として、農園を開いた際に決めていたことは、唯一つ、化学物質は極力土に持ち込ませない、そのためには、肥料は使わない、草木堆肥一本に絞ることでした。
一年間にわずか3センチの深さしか「団粒化」が進まない。10年掛けて土壌は30センチの深さしか微生物層はできていかない。それでも草木堆肥を補給し続けた土は常に成長している。まさに持続可能な農業ということになります。
 
※団粒化とは、微生物や有機物残渣を核として砂状にさらさらとなった土の粒のことを指す。

 この団粒化が進むと、土壌には酸素が入りやすくなり、水持ちが良く、保肥力も上がる理想の土になります。この土こそ、微生物層が成長し続け、自然循環の土壌となります。
化学肥料や畜糞を使った土壌は、常に窒素過多となり、土は固くなり、団粒化とは真逆の土壌になり、微生物や放線菌が生息し難い環境になってしまいます。

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