農園日誌Ⅱー「活きること」ーPART11ー新たな仲間達

31.3.27(水曜日)晴れ、最高温度20度、最低温度6度

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                   玉葱畑ー7番の圃場

 新玉葱の季節になった。この時季は、葉と共に出荷できる葉玉葱が出始める。
葉の部位は葱として使い、玉の部分は甘く柔らかいためサラダとして用いる。

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そうなると、葱坊主が付き始めた九条葱はお役御免となり、葉玉葱に入れ替わる。
今年は、早く春が訪れ、九条葱は約二畝分が春の莟立ちによって、ダメになった。
まだ葱坊主が出始めの頃までは、出荷可能ではあるが、やがて全体が硬くなり、
食べれなくなってしまう。これも農業です。


「活きること」PART11
2012年2月―新たな仲間達

由布市開催の農園セミナー時の受講生の中から、三人の自然循環型農業の実践者及び共感者が、共同出荷の仲間として加わった。
一人は、平野さんであり、除草剤・農薬は使わない、化学肥料や畜糞も使わない自然栽培にてお米と梨を育てていた。自然栽培で育てる水田の課題は、大雑把に言って三つある。
 
一つは、水田を覆い尽くす雑草と稗である。そのため、ほとんど全ての水田では除草剤(畑も同じだが)を使わざるを得ない。この対策として、平野さんが取った手法は、深水管理であった。
合鴨農法もあるが、これは天敵から守るため、ネットやなどの防御が必要となり、鴨の管理をしなければならず、大きく育った後は、殺処分をしなければならないなどの問題もある。
これに対して深水管理は、水を水田一杯に張って、常に流れるように管理し、雑草を生やさないようにする。稗は、どうしても引っこ抜いてやらねばならないが、3年もすると稗も少なくなる。
これに加えて、米糠を水田に撒けば、水面に皮膜を張って雑草が呼吸しにくくなるようにする。
 
二つ目は、暖かくなってくると、水田が蒸れて、いもち病という稲特有の病気が発生することである。
ここは、山間部に位置しており、昼夜の寒暖差が大きく常に冷たく新鮮な水を水田に流し込むことができるため、いもち病予防の農薬を使わなくて済む。
 
三つ目は、肥料不足にならないかと言う点である。
水田の場合は、山に積もった腐葉土などからミネラル分や窒素などの養分が水田に流れ込む。そのため、本来的には、窒素やミネラル分の補給をしなくても済む。
平野さんの水田は、山間部にあり、豊富な水が山から潤沢な栄養分を運んでくれる。
このように、日本古来からの稲作は、元々、無肥料無農薬で育っていた。特に山間地のお米は美味しかった。将に自然循環型農業であった。化学肥料や農薬が普及し、効率化・省力化・増産を歌い始め、現在のような慣行栽培が主流となっていった。
 
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自然農の梨は随分と苦労している。季節になると大量に発生するカメムシによって成長し掛かった梨の実をくちばしで吸われ、売り物にはならなくなってしまう。
カメムシのシーズンには一度くらいは農薬を使ったら!と言っても頑として聞かない。
彼もぼーっとしているわけではなく、梨園の下刈りをし、梨酢を作り、ペットボトルに入れて、あちこちにぶら下げている。ここに甘い香りに誘われて虫が落ち込み、害虫駆除を行っている。
それだけでは、実が付いても、生産リスクがあり過ぎて出荷できる量は少ない。
年によって異なるがほとんど出荷できない年もある。その代わり形は悪いが、味香り旨味は、超一級品。これこそ、奇跡の梨!そうすると、むかし野菜は奇跡の野菜と言って良いのかな・・・!

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次に田北さん。彼は数頭の繁殖牛を育てながら、約5町(15,000坪)の米作りと露天原木椎茸栽培を行っている。
中山間地の農業者が、後継者も稲作を嫌がり、都会地に出てしまい、高齢化が進み、地域で唯一農業を行っている田北さんに半ば押しつけ気味に水田を貸している。結果として5町歩の稲作をしなければならなくなったためである。ここにも、日本全国何処でも見られる地域崩壊の危機が迫っている。
国の無為無策地方切り捨ての結果である。
 
原木椎茸とは言っても、実際は原木ハウス栽培の椎茸が多い。これは、温度及び水の管理を徹底し、ショックを与えながら、発芽や生育を促す方法である。その方法だと、大量生産が可能となるが、露店栽培と比較して肉は薄く味香りも弱くなる。
天原木椎茸は自然栽培に近い。しかも彼は、現在流行りの白っぽい椎茸ではなく、むかしながらの黒っぽい椎茸を栽培していた。この品種は見た目が悪いが、椎茸本来の味香りがし、美味しい。
彼の悩みは、そんな自然栽培に近い農法で、収量も少ないのに、原木ハウス栽培と同じ価格でしか売れないことであり、乾燥代(重油を燃やす)も高く、採算に乗りにくいことであった。
又、日中の政治的緊張関係があり、原発ショックで日本の椎茸が中国では売れなくなり、高値で取引されていたドンコ・コウシン(いずれも開かず肉厚で高級品)が全くと言って売れなくなってしまっていた。

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彼から相談を受けて、私はこう言った。
「燃料費も高騰しており、しかも、乾燥高級椎茸は一般消費者の支持を得ていない。若い主婦たちは乾燥椎茸の使い道を知らなくなってきており、今では高級品のどんこ干し椎茸など見向きもしない」
「それならば、いっそ、最高級ブランドのドンコ・コウシンの生椎茸を消費者へ届けよう。これなら、うちの特定消費者の支持は得られる」と。
その後、椎茸だけではなく、新たな商品となり得るなめこや平茸の栽培方法の開発を示唆している。
さらに、彼から秋のお祭りの際、作ったと言って餅を頂いた。庄内産の美味しいもち米で作ったお餅は実に美味しかった。
草木堆肥による穀類生産及びその加工品作りを模索していたが、味噌作りに必要な大豆の余剰を使って、大豆を煎り、黄な粉の生産実験も行っていた。
「田北さん、この餅をもっと作れるかい?」と聞いた。庄内産の美味しいもち米から作った丸餅と黄な粉を一緒にお客様に届けようと考えた。
そこから、田北さんはお米・椎茸栽培の農業者だけではなく、お餅の製造者になっていった。
唯、ここでも防腐剤・防黴剤などを使用していない餅は問題となった。
通常自然状態に置かれた餅は、製造してから2日も経過すると自然界にうようよと浮遊している黴菌が付着し、青や赤黴が発生する。包丁などで削いで食べれば良いのだが、防黴剤などの添加物で守られた餅に慣れている消費者には納得できないようだ。
お持ちの出荷は放線菌の活動が弱くなる11~3月までとし、真空パック包装や着いたら直ちに冷蔵庫にて冷凍保管するようにとの注意書きを書いて凌いでいる。
 
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三人目は、農協、アスパラ部会長である田中さん。
草木堆肥に興味を持ち、同時に、農協に従属し続ける農業にも疑問を抱いており、新たな途を模索しようと当グループに加わろうとしていた。問題となるのは、現在農協出荷中の青いアスパラでは、部会締めだしを受けることであった。
こんな話が合った。
熊本の運送会社から、当農園に対して関西の漬物製造会社に野菜を出してもらえないだろうか、との相談があった。うちには、そんな余裕はないと丁重にお断りした。
彼はこう言った。「何処を回っても農協出荷先ばかりで、農業部会に入っている人が一部でも他へ野菜を出荷すると、農協取引を打ち切られてしまうため、全て断られてしまう」
ここにも大きな農協問題が隠されており、地域農業の課題が垣間見える。
そこで田中さんが考え出した結論が、パープルアスパラの新たな生産計画であった。
それから3年後、ようやく軌道に乗り、現在は、アスパラの採れる3月~9月頃まで、むかし野菜の一翼を担っていただいている。
 
5番の畑がようやく戦力になり始めた10年目を迎えた頃には、新たに娘婿である竹内君がスタッフに加わり、続いて福岡から後藤君が研修生として加わった。
何しろ、鍬を持ったことも無い農業初心者達であり、一年間は戦力にはならない。
草木堆肥の作り方、堆肥や焼き灰の振り方、耕し方、鍬やレイキの使い方、畝立ての仕方、種の蒔き方、トンネルの張り方など、極く初歩的な作業を体に覚えさせるだけでもほぼ一年間は要する。
二年目は、年間百種類以上の野菜の個々の性格を覚えなければならない。育て方も、堆肥や焼き灰の量も異なり、管理の仕方も違う。
農園主に付いてくるのも難渋しており、当初は、これ以上生産量は上げられません。無理です。と断言していた。そんな彼らに付きっきりの指導の毎日であった。

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グループの仲間も増え、研修生も加わり、一人農業から解放され、農業生産量も出荷量も次第に増えていったが、この時期は、野菜の生産量がお客様の数に見合って居らず、慢性的に不足していた。
とは言え、食い扶持が増えたため、それだけお客様も並行して増やしていかねばならない。
さらに、お届けする商品も生鮮野菜だけではなく、漬物・味噌など農産物加工品の生産量も増やしていかねばならない。そうなると、既存の農作業小屋ではどうにもならない。
保冷庫が要る。保存庫が要る。加工所や機械設備も要る。
このあたりから、自然を友にしてきた農業者としてだけではなく、スタッフを抱え、人の欲を制御していく経営者へ転換していかねばならなくなってきている。

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農作業小屋の土間でレンガを組み、薪をくべ、大豆を蒸していた。出来上がった大豆を米麹と混ぜ、育苗ハウスの中で、味噌作りをした。生産量も少なく、温度が上がる真夏などは涼しいところが無く、発酵熟成させる置き場所にも困っていた。


銀行員時代、決して泣くはずの無い幾多の経営者の涙を目にしてきており、決して経営者にだけはなりたくないと思ってきたが、自らが始めた農業であり、事業であり、自ら課した目標があり、最後まで見届けていかねばならない。これからは、孤独も友にする事になった。