農園日誌ー社会的存在価値を求めてーPARTⅠー自由人

29.2.15(水曜日)晴れ、最高温度11度、最低温度0度

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 比較的暖冬が続いていたので、野菜の成長も順調にいっていたのだが、1月の下旬頃から、断続的に襲ってくる寒気団に、2月になっても毎朝氷点下が続き、成長が止まる。
三寒四温の暖かさが待ち遠しい。

そうはいっても、春野菜の種蒔き時季は来ており、昨日は、一斉に畑を起こし、堆肥を撒き、畝立てを行い、10畝に種を蒔く。

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雪が舞う中、震えあがりながらトラクター  二日後、一斉に種蒔きを行う。
に乗る。畑作りの前に耕耘する。      大根二種・ビーツ・サラダセット・人参・
                           ほうれん草・葱の苗床・じゃがいもなど。

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明日は、三番の畑の玉葱の草取り作業を行う。びっしりと根を張った雑草に大苦戦。
草取り鎌を差し込み、根を切ってから除草するため、遅々として進まず。
横では、後藤君と竹内君のぼやきが続く。この畝伸びていっていない!


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加工場の建築が急
ピッチで進む。
二月末竣工(とりあえず二棟)を目指しているが、ぎりぎりの様子

大工さんに頼んでよかったと思う。
やはり木の家は良い。

予想通りかなり大きな
施設になっている。



社会的存在価値を求めて―PARTⅠ-自由人であり続ける
 
 幼いころから中学生の頃まで、通信簿などには、必ずこう書かれていた。
消極的であり、内向的な気質を持っている。もっと積極性を身に付けるように!と・・
その反面、母親の教育は厳しいものであった。よく竹の鞭で手の甲を叩かれた記憶がある。
泣いて帰ると、叱られ、理不尽(当時は何がそうなのかは判る訳も無い)な言動をすると、必ず、正座させられて謝るまでゆるしてもらえなかった。
どうやら、人を貶めたり、侮り、理に叶わないような振る舞いは許さないといったものであったように記憶している。
情には滅法弱く、涙もろくて、義に厚く、少しの物でも他人へ公平に分配する、女ながらに仁義の人であった。おかげで我が家はいつも貧乏であった。
ちなみに、「仁」は人に二人と書く。相手への限りない愛であり、広く全ての人への愛を意味する。
「義」は人としての約束事・繋がりを大切に扱うという人が守っていかねばならない集団の規範ともなる言葉である。
日本人が培っていった美風を体現していった人であり、日本人の原型を見るようでもあった。
 
 世界は今、自由主義自由貿易など、自由競争を守り、それが資本主義の規範であるとの思想で成長し続けてきた。現在資本主義は、国と言った概念、民族と言った共同社会を飛び越えて、弱肉強食の競争が加速し、大が小を飲み込むグローバルスタンダードへと流れている。
資本はひたすら富(利)を求めて、膨張し続けることによって、金が金を産む投機へと進む。
富は著しく偏り、階級社会へと進み、分配の不公平さは益々加速していっている。
学生の頃読んだマルクス資本論の一説を見るようである。
一体誰のための自由主義であったのか?と疑問を抱くようになっていく。
 
こうした社会では、少数の富の支配者への憎悪から、極右とも言うべき集団が支持を集めるのは、いつもの歴史の繰り返しでもある。自由より民族自決、異民族排斥、やがては卍十字の独裁へと進む。欲を制御できない人、あるいは、その集団の専横の歴史はいつも愚かである。
                                                                      
かって、若者たちは、立身出世や実業家を目指すなど、名を立てるという夢があった。
この時代では、富める人と這いあがれない人との格差は大きく、階層社会から階級社会へと進んでおり、名を成す機会は極めて少ない。
さらに大規模化を進めていく会社内でもその階級制・官僚化は進み、上に這い上がるには、自らの能力を磨くより、自分を捨てて、上司に阿る能力が出世を左右してくる。
農園主もかってはその世界で生きてきた。幸いにも、私にはしっかりと母親の教育が効いており、自らを磨き学ぶことに専念し、出世より仕事を全うする。その生き方は闘いそのものであった。
それでも心の自由は保ててきたことを今でも誇りに思っている。
それが私の全ての財産である。

利のみ追求する、あるいは、経済優先の社会に何時なったのだろう?
価値観がみな横並びの社会、人に合わせていかなければ除け者にされる。
そこでは、古来から日本人が持っていた美徳である仁義や情などが入り込む余地が無い。ある意味では自分を失くしてしまっているのかもしれない。
 

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味噌作り
かっては、どこの農家でも自家製味噌を
作っていた。
漬物を漬込み、穀類を育て、自給自足の
生活があった。
その時代は、全てが寛容であり、豊かで
あった。そして、みな健康であった。
豊かさの意味が今は問われているのではないか、とも思う。




時代の趨勢なのか、経済構造のせいなのか、社会の歪みのせいなのか、教育のせいなのか、今の若者にかっての夢が無いように見える。独立心も、生きる気概も、薄いように思える。
それでも、夢を持ちたいと願っており、何かを探そうとしており、自由に生きたいと考えているのではないか。
但、一つだけ忠告しておきたい。夢や自由は与えられるものではなく、自ら勝ち取るものである。
現在の生活を守ろうとするだけでは、汲々と今の社会にしがみつくばかりとなる。
謙虚に学び、目標を立てて、ひたすら努力したものにしか、神様は微笑まない。
 
かって、古代中国に白圭という商人がいた。彼はこう言う。
「一方には皆が捨てていくものがあり、他方では皆が拾うものもある。捨てていくものを贖い、それを欲している地域で売る」 それが商いの基本である、と・・
彼は、さらにこう言う。
「商いは自分のために行い、事業は人のために行う」つまりは、商売は利を求めることであり、事業は、社会(人)が欲することを行うものである。
 
地域には農業の世界があり、地方都市には職人の世界もある。それは絶え間ない、もの作りの世界でもある。
人が嫌う(捨てる)仕事に就き(拾い)、ひたすらもの作りに専心し、社会(人)が欲する処(層)に売る。
生きていく場所を自ら探し、そこに飛び込み、努力を重ね、夢と自由を勝ち取る勇気を持つことが必要な時代ではないかと考えている。
 
自由人であり続けることは、かなり難しい。
それは心の中に夢が無いと保てず、一人では到底達しえないことでもある。
その仕組み作り(結い)を求めて、むかし野菜の邑と言う会社(共同体)を通して、70代近くになっても、農園主は試行錯誤を重ねて、考え続けている。
この邑では、集による共同作業と個の自立と言う、一見、相容れないテーマを追求し続けている。
ここに住む邑人は、自立した農家の集まりであり、やがては多様な職種の職人・技能者も住めるようになる。
自然循環農法による野菜・穀類・果物が産出され、その加工品も共同で製造され、都会地に住む消費者へ直接届ける。価値観を同じくする消費者との交流も進み、その過程で生産・加工・飲食・販売と分業化も進むであろう。それは会社と言うより共同体であり、一つの小さな社会でもある。
個の存在が互いに関与されつつ一つの社会的存在となり、生きる価値が生まれる。
その邑のテーマは、結いの仕組みであり、何より、個の尊厳を守るべく、自由人であり続けることである。