農園日誌ー野菜の宅配PARTⅢ-自然環境の変化と農業現場の対応

28.6.7(水曜日)曇り、最高温度25度、最低温度17度

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                五番の畑は夏色に染まる

連日ムシムシとする暑さが続く、梅雨本番に入った。
5番の畑(二反強)の1/4をトマトが占めている。ようやくその2/3の支柱立て作業が終わる。一体何本の竹を切ったことだろう。
露地トマトは梅雨入りと同時に一番果が色づき始める。最盛期は7~8月頃になり、
10月末頃まで細々と成り続ける。
その間、芽掻き・葉っぱの剪定(透き込み)・誘引と何回もその作業を繰り返す。
梅雨時期は合羽を着て、真夏ではふらふらになりながら、秋には数メートルに伸びた枝の誘引作業に手を焼く。
今は、皆で支柱を立て、農園主がその姿形を作り、総勢6人の手で管理し続けることになり、真に長い付き合いとなる。
今日、一番果を採り、本日の食卓にのぼる。合わせて採った胡瓜の一番果でサラダにした。口の中は早、夏の香りで一杯となる。
「これこれ、懐かしい香り!」、今年のトマトは酸味より甘味が出ているようだ。
トマトには気候が合っているのかな?

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男子メンバー全員での竹の切り出しと支柱立て作業の風景。
ほい、忘れていた今春から女性の農人候補生が加わった。
男子に混じり農作業の基本を教えている

この日は偶々梅雨の
合間の一時の晴れ間
たわわに実り始めたため、今にも倒れんばかりのトマトたち。

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竹の切り出しから始まって支柱立て作業までまるっと一日の作業となった。
これを3回繰り返してようやく支柱立て作業が終わる。
その合間に胡瓜の支柱立てもあり、それらが終わると今度は茄子・ピーマン系野菜達の支柱立て作業が待っており、その合間には伸びきった草の除去作業を行うなど梅雨時期はとんでもなく忙しい。とても晴耕雨読とはいかない。
明日は午前中、剪定枝の破砕作業と草木堆肥作り、一本葱の植え付けと続き、
午後は雨が降らなければ約4反の小麦の刈り取りを行う予定。
何時雨が降り出すかもわからない曇天下の作業に合羽着用はかなりハード。

それでも鬼の居ない間には笑い声が聞こえてくる。たぶんその鬼は私なのだろうと、やや複雑な気持ち。

今日も忙しい作業の合間にみなには作業の指示を出し、官公庁に出向く。
六次産業化の補助金申請手続きのためではあるが、その手続きはどうしようもない理不尽さに満ち満ちており、民間の常識や気持ちは一切お構いなしの真に、お役人仕事であり、それに付き合うのも堪忍袋の緒が切れる一歩手前にある。
補助金の認定が下りなければ、工事着工ができないとのこと。
その権限を持ち、判断を下すのは霞が関のお役人達であり、地方の官公庁はその手続きや質問の多さに振り回されている。さらにそのお役人たちに民間はさらに倍して振り回され続ける。正に重箱の隅をつつくとはこのこと。
今日は流石に、7月迄に認定が取れなければ、すべて辞退すると申し渡して市役所を出た。頭にあるのは瓜・胡瓜・茄子・紫蘇などの漬物作り、保冷庫が無ければ、すべて傷んでしまう。もはや補助金どころではない。
大分県の振興局に促されての今回の補助金申請ではあったが、今、後悔の念が胸いっぱいに膨らんでいる。
こんな国の役人の生活のために税金を払っている自分が情けなくなる。
融資をして頂ける銀行の若手(皆私の後輩達)が心配して農園に来てくれるほど。
その心付けがうれしくもある。


野菜の宅配についてーPARTⅢ-農業現場から真実の声
 
日本の消費構造・消費者の意識は、共に、まだまだ幼い。
さらに、官の定める法令(有機JAS法・農地法)、官の政策(農業保護法・支援の在り方)などは上から目線で農業現場の実態や農人たちの意識をまるで無視した形で行われている。
(戦後の農業政策や国土保全(主に地域環境やインフラ保全)はことごとく後手に回り、農業地域は著しく疲弊し、崩壊寸前に陥っている。すでに何回も述べてきた)
 
そのような官民の社会環境下では、メディアも含めて(場合によっては学説も)権威主義や概念主義に陥り易く流通市場において、食の安全・農業現場の現実や真実が伝わっていない。そのため、消費者の価値観はそちらのほうへ傾きがちになり、農業現場の実態が反映されず、様々な常識(価値観)が形作られていった。それらの常識は実は農業現場では非常識となることが多くなっていることを皆様はご存じだろうか?つまりは、本音(現実)と建前(形や法規)が分離してしまっている。
これらのことが日本の有機野菜(JAS認定)が世界市場においてオーガニックの認定を受けられない所以となっているようだ。
個人的には元々有機野菜の発祥の地は日本であり、豊かな自然環境に恵まれた環境下で自然循環農法が続けられてきた日本の農業がさながら世界の有機後進国のように扱われているのが、残念でたまらない。有機農業の発祥の地は日本だぞ!と国の官僚たちに言ってやりたい。
 
(自然農とは?)
 
言葉の定義や概念にあまり意味はないと私は思うので、ここからは、農業現場の現実と野菜の生理などについて説明していきたい。
 
そもそもの自然農とは、日本で行われていた農法を紐解くと、焼き畑農法に行き着く。
熊本の五家荘でつい最近までは行われていたようだ。山林や原野に火をかけ、積もった腐葉土と焼き灰の中に種を撒き、自然の恵みの中から農産物を得る。
そこでは、豊かな有機物残渣とミネラル分があり、害虫も駆除されており、肥料も農薬も要らない完全な自然農が可能となる。二か年ほどはその恵みは残されている。
勿論、現在ではそんな農法は難しいため、有機栽培と言えば、動物性肥料を使い、農薬も必要となっている。そんな有機野菜に疑問を抱き、福岡さんのような自然農を推奨した先人たちがおられた。
それらの人達は、自然農で採れた農産物を商品として売り、生計を立てるということではなく、あくまでも自給自足の生活や家庭菜園を考えていた。
何故なら、収穫できる恵みは極くわずかであり、出来高は不安定となるからです。
焼き畑農業のように圃場を毎年換えていくわけには行かず、有機物残渣も少なくなり、ミネラル分においては、毎年作り続ければ雨しかミネラルは補充はできず、野菜を採り出す度にその圃場からは徐々に有機物残渣(栄養素)やミネラル分は収奪されていく。
 
堆肥を圃場に補給し続けていく有機野菜とは対極にある自然農の農法に近いが、その欠点を補っているのが、草木を主体とした自然循環農法である。
これは、日本の先人たちが営々と営み続けてきた農法でもある。
それはわずかな鶏糞・牛糞(農耕用)を草木に加えて2年ほど積み上げて草木堆肥を作っていた。所謂、元肥である。
それだけでは野菜の成長には足らず、人糞をこならせて、追肥として施肥してきた。
 
佐藤自然農園(むかし野菜の邑グループ)では、日本の先人達の様々な農法を引き継ぎ、(できうる限り輸入飼料を使用していない)牛糞〈約10%〉を発酵促進剤として使い、圃場や公園などの緑地から草(50%)を刈り、造園会社から持ち込まれてくる剪定枝や葉っぱ(約40%)などの破砕屑を発酵させた草木堆肥と、木や草を焼いた草木灰・牡蠣殻を耕すたびに施肥し、圃場に微生物や放線菌を育て、彼らに畑を耕してもらう。
先人たちのように追肥は施さない。
そのため、ほぼ満足のいく圃場になるまでには、少なくとも5年の年月を要
する。
自然循環及び浄化機能が働き野山のような豊かな生物層が出来上がるには10年を要する。
実はこれが大きな課題として浮上してくるのではあるが・・(PARTⅢにて述べる)
 
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これは佐藤自然農園の
農作業小屋の天井
です。

野菜が所狭しと吊るされております。
自然乾燥している風景
です。
いきなり保管庫や保冷庫に入れますと多くの野菜は腐ってしまいます。(特殊な薬剤を使用すれば可能です)




(野菜の成長の仕組み)
 
野菜の価値とは何でしょうか?安全性それとも栄養価、否、美味しさでしょうか?
それを紐解くためには、野菜の生理を学ばねばなりません。
 
野菜が成長するには、窒素・リン酸・カリの三要素は学んだと思いますが、それ以外にも微量元素,即ち、ミネラル分が必要です。それもバランスよく・・
そのうち、野菜の成長を促すのは窒素分です。但し、健全な成長にはミネラル分は必要です。
問題なのは、適度な窒素分とは?というのが課題です。
土中に窒素分が多ければ、野菜は際限なく大きく肥大化していきます。困ったことに野菜は土中にあるだけの窒素分を吸収しようとしてしまいます。
土中に窒素分があると、ミトコンドリア(成長促進酵素)は増殖し続けます。
窒素過多の土壌で育った野菜は、成長過程なのに、野菜の体内には過剰な硝酸態窒素が残ったまま出荷されます。この点だけから行くと、自然農,若しくは草木堆肥のみの野菜は低窒素土壌ですから、安全とも言えます。
但し、余りにも窒素供給の少ない土壌で育った野菜は成長過程で体内にでんぷん質形成がし難くなり、完熟過程ででんぷん→糖質・ビタミンへ変換(分解)が少なくなり、甘味が無くなります。さらにミネラル分が欠如していくと、健全な成長が遅れ、味や香り・旨みが少なくなります。
有機質も持ち込まれていない土壌で育った野菜は、糖質・ビタミン・ミネラル分が少なく、総じて透明感のある味香りの薄い野菜ができます。当然に旨みも薄いようです。
そうなると、有機質土壌になっていない圃場で育った野菜は必然的に栄養価も乏しいということになります。
 
このように低窒素土壌とは言っても、ある程度は草木などの有機質を持ち込まないと栄養価が乏しく美味しい野菜とは言えなくなる。
 
最後に健全な土壌とは、また、野菜作りに適した土壌とは、有機質に富み、それでいて窒素過剰にならずに、ミネラル分がバランスよく含まれた土壌ということになります。山野の腐葉土のような環境ですね。
そこでは、子虫・微生物・放線菌などの生物層が常に自然の営みの中で、自然による浄化作用(生命の循環機能)を果たしてくれています。
現在の学説では、根粒菌バクテリア)など微生物と野菜は共棲しており、野菜の健全な成長には微生物は欠かせないものになっている、と言われ始めております。
 
最近では、持ち込まない持ち出さないといった自然農の定義とは別に、自然農と謳っている野菜生産現場でも草木堆肥を持ち込み、より栄養価の高い美味しい野菜を生産している農家も出始めております。
もし、何も施さない自然農の野菜であれば、当然に収穫量も極端に少なく、生産リスクも大きく、それだけでは農家の生計は成り立たず、消費者には数倍の価格を付けて負担してもらわねばならなくなります。若しくは、自然農の生産者は他の収入源を持たなければ生活は維持できなくなります。
自然農をしていると虫も居なくなり、従って農薬も要らないなどとおよそ反自然科学的なことを言われている人もおります。正に神がかり的な農業となってしまいます。
私の考え方では、それでは市場性が少なく、自立した農業とは言えないのではないか。
消費者もあまり定義とか概念とかに振り回されずに、ご自分の目と舌を信じて真の美味しい野菜を探せるだけの見識を養うことが大切であると考えます。
 
次回は、大きく気候が変わってきている環境下で、さらに突っ込んだ農業の現場のありのままの姿をご紹介いたします。