農園日誌ーグループ営農営への試みーミニマムで壮大な実践

28.2.17(水曜日)曇り、時折晴れ間、最高温度10度、最低温度1度

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               春告げる梅の花咲く、戻り寒

この時季には、トンネルを撤去しようとすると、寒が戻り、なかなか思い切って
手が打てない。
露地栽培の場合、氷点下になり、野菜を守るためにトンネルを施すが、成長すると
今度は蒸れや黴や赤ダニ・アブラムシの発生の恐れがあり、溶けるように落ちていく野菜達。個々の野菜達の成長に沿ってトンネルを剥ぐる作業の繰り返し。
その見極めは中々に経験の要る作業となる。
そんなこんなで剥ぎかかったトンネルがいつの間にかしっかりと張られていた。

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空豆と玉葱を除く
野菜達はみな、
トンネルの中へ、
(二番の畑)

この中には2月中に
種を蒔いた人参・ほうれん草・茎物野菜も
含まれる。

先の春一番でトンネルの多くが吹き飛ばされ
修復作業が続いた


寒の戻りも来週には一段落しそうで、ほっとしている。
現在出荷している野菜達の多くは10~11月に種を蒔いたもので、厳寒の端境期を凌いでいる。それもぼちぼち底を突いて野菜欠乏症に陥りかかっている。
越冬した小さな成長しかしない葉物野菜の出荷で繋いでいる。それでも鋏を入れると、しゃきっと切れる。美味しそうな音がする。
厳寒の野菜不足に農園主の心も寒い。
繋ぎに育苗ハウスでほうれん草や小松菜を蒔いているが、やはり味や食感が二段階は落ちるため、見た目きれいに育ってはいるが、出荷にはどうしても躊躇してしまう。まるでうちの野菜ではないかのように・・
露地では、12月頃に種を蒔いた小松菜・青梗菜などの茎物野菜やほうれん草が
ようやく出荷一歩手前まで成長してきている。春が待ち遠しい。

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                収獲適期(旬)を迎えた芽キャベツ


グループ営農への試みー(ミニマムで壮大な実験、PARTⅠ)

巨大流通システム(国の単作大規模農業の指導→全国農協の生産部会等→スーパーなどの量販店)では大量流通に適した規格サイズ・見てくれが要求され、農産物本来の味等の美味しさは何ら評価されない。(勿論、安全・安心なども)
それではと、有機農産物はどうかと言うと、流通マーケット(有機専門店)でも、結局は見てくれや適度なサイズが要求され、当然に安心さや美味しさ(栄養価)は担保されていない。
(但し、個々の生産者の中には、安全で美味しい有機農産物を生産されておられる農家もたくさんいるとは思うが)

となると、数は極端に少ないが、多品種栽培を行っている個人の有機生産農家の良心に支えられた個人流通でしか、健全で安心して食べられる野菜は確保できないことになる。
そこでは、農人と消費者の信頼関係が形成されていくことにはなる。
但し、これも相当に厳しい。
何故なら、消費者の側から見ると、安全で、安心して、食べられる美味しい農産物を一体誰が作っているのか?さらに、消費者には何が、どの農法が、健全な農産物であるのかすら分からない。
生産者の側から見ると、誰がそんな農産物を欲しているのか見つけるのも、コミュニケートすることすら難しい。さらに、通常の企業活動では、マーケティング的手法を使い、消費者とコンタクトを図ることは極く普通に行われているが、果たして農人達にそれを求めることは至難の業でもある。

佐藤自然農園では、一昨年、今までの協力生産者達に声をかけて、共同出資で(株)むかし野菜の邑を立ち上げた。さらに研修生三人も独立が目の前に迫っており
グループ営農へ舵を切った。
農園を立ち上げて14年目を迎え、260余名の定期購入者(仲間達)に支えられていた。お客様たちにはまことに勝手ながら、個人農家からグループ化した会社への
流通・加工業務のシフトを断行した。
どんなに美味しい野菜つくりを行ったとしても、一人農業では労力的に限界に達していた。農業の未来をかけて、さらには、自然循環農法の継承に向けて、集団での営農スタイルへシフトしていこうとしている。今年、会社の社屋も立てる。

この集団での営農スタイルには様々な形態が考えられる。

一般的には、過去の農協スタイルのように、完全に独立した農家があり、地域ごとに営農指導を行いながら、生産物を農協に集め、巨大流通に流す仕組みである。
(現在の全国農協は、その流通の仕組みだけが残り、地域に溶け込んだ営農指導もなく、コムの理念も喪失し、巨大な収奪システムだけが発達していった)
自然循環農法では、農薬も化学肥料も使わないかわりに、苗育ても自己で行うし、
草木堆肥も(その材料も自己調達)自分たちで作らなければならない。
除草剤も使わないため、草取りなどその労力は甚大となる。

そうなると、生産活動においても個人所有という概念だけでは難しくなり、共同作業がどうしても多くなる。丁度、昔の日本の原風景に存在した「結い」の仕組みが必要となってくる。

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鳥獣被害に悩まされ始めたカンラン系野菜。大量のひよ取り(保護鳥)が山に木の実が無いこの時季飛来してきて、葉っぱは丸裸にされ、大量の糞を落とす。
防護網をかけてはみたが、かれらも生きるために必死であり、網をかいくぐって
くる。考え出したのが織布(パオパオ)を全体に掛けること。
収獲度毎に剥ぐり、また掛ける、重しを置くなどの労力が掛かるのが、目下の悩み

むかし、学生時代に、マルクス・エンゲルス資本論だったか?資本主義の搾取
に対抗するため、コミュンテルンの考え方を議論したことがあった。
そこでは、労働の分配、(富の分配とも言うが)を公平に行うというのがあった。
その「公平」とは一体何だろうと言うのが議論の主なもの。
「働かざる者は食うべからず」とも言っていたようだったが、それはあくまでも人が
皆一律に高い精神構造を醸成させ、皆のために(ここでは公共的とも言うべきか)
働くという概念が育った時のことではないか・・といった議論を重ね、最後は、それは難しかろうという結論に達し、いつもそこで終わっていたことを覚えている。

むかし野菜の邑では、様々な個性を持った人間が集まり、「集団の利」を第一義として行動し、「個人の利」とのバランスを考えるというのが約束事になる。
それを破る者が出てきたら、早い段階で退場させることも一つの大きな約束事になる。小さな膿がやがて大きな大病へと進んでいく。これはもしかしたら、経営上での
帝王学に当たるものかもしれない。
そうなると、これはもはやコミンテルンなどとは言ってはおれない。この考え方はどうやら、中国の春秋時代に現れた安子(その公平なること秤のごとしと言われた名宰相)ではないか?正しくそれは東洋思想ではないか。

欲を制御することは真に難しい。むかし野菜の邑ではそんな聖人たちの集まりではない。そこでは、やはり、何らかの約束事が必要であり、腐っていかないような仕組みが必要となってくる。

流石に疲れました。この続きは次回に・・・・