農園日誌Ⅱー「活きること」-PART19ー新社屋建設へ向けて

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                     トマトの剪定誘引作業(5番の畑)

 今年もトマトの管理作業の季節になった。
日差しは5月と言うのに強く、畑に這いつくばって作業をしていると、ふーっと意識が遠のくような感覚に襲われる。熱中症の症状である。次にはクシャミが出て、あくびが出る。ついには、寒気がし始め、悪寒が走る。
もっともそうなる前に水を飲み、軽トラックに逃げ込み、しばし、休むことにしている。
他のスタッフは出荷作業に追われており、日中炎天下の一人農業となる。

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         これは本支柱を立てる前のトマトの初期設定作業

斜め45度にトマトを傾け、一つのトマトに3~4本の枝を伸ばすための準備作業。
枝を左右に振り分け、角度を変えて枝が交差しないように伸ばしていく。
根元に近い葉や重なった葉っぱは落とし、風の通りを良くし、太陽の光を木漏れ日のようにトマトに当ててやる。かなりな経験が必要となる。
ハウス栽培の場合、ベテランの農家は13~15段までトマトが成るように設定する
露地栽培の場合は、雨風に晒され、とてもそんなに枝を伸ばすことは出来ないが、
それでもうまく初期設定作業ができると、10段近くまでは可能となる。
枝の長さは最大5メートルにまで伸ばすことが出来る。


「活きること」ーPART19ー本社社屋建設に向けて

2015.4.20  開発許可の取得
 
2003年に佐藤自然農園を開いてから12年が経過していた。
この頃、定期購入のお客様は飲食店8軒と個人220余名であり、全て直接販売であった。
この頃、直販型の有機野菜生産農園は一農園に100余名の個人客と飲食店数軒といった規模が、実情であり、全て家族経営で行っていた。その通常モデルから考えると、当農園は、かねてから考えていた次の段階、グループ営農集団を形成していく時期にきていた。
そのためには、佐藤自然農園が生産から販売・加工を全て行うことを止め、新たに(株)むかし野菜の邑を設立し、その販売と加工部門を会社に担わせ、当農園は一生産農園の位置に置くべきであると考えた。
現状は、当農園がむかし野菜の邑の販売額の85%を占めており、この比率を下げるべく、この会社に参加している個々の農業者の力を強くしていく必要がある。
また、当農園を研修終了後、若者達を農園主としての独立させるため、彼らの育成に全精力を注ぐことにした。

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偶々、国が六次産業育成事業(補助金助成)を行っていることを地域振興局から知らされ、又、その申請の打診があり、(株)むかし野菜の邑の新社屋建設を行うことにした。
これ以前から、無添加醸造味噌・乳酸発酵の漬物は製造しており、その貯蔵する保冷庫を必要としていたため、製粉機・乾燥機・精麦機・色彩選別機などの施設と併せて、農園直売所・出荷ヤードも兼ねて
数千万円の建設予算を組んだ。
農産物全売上が18百万円に比べて大きな投資となる。国や金融機関からはやや無謀ではとの意見もあったが、自信はあった。銀行員時代、総借入額が売上の2倍以上になると危険と言う判断基準がある。
そのことを見越して、生産面では、穀類の増産と、その加工品製造を企図してきた。さらに、特定市場に向けたコミュニケーション戦略(販路拡大)も考えていた。
 
社屋建設予定地は、佐藤自然農園の作業小屋に近接する大分市の市街化調整区域内にあり、開発許可が必要であるが、その許可申請において、大分市の開発課との交渉折衝は難航を極めた。

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          むかし野菜の邑新社屋建設地

雑木林の覆われていた用地は切り払われ、業者によって切られた雑木は全て堆肥場にて燃やして、草木灰とした。
向こうに見えているのは、社会福祉法人の建物。社会福祉法人の施設の場合は良くて、農業施設には難しいと言うことは無い筈。

※市街化調整区域とは、市が上下水道の設置が困難な場所に設定した区域であり、基本的には、住宅や店舗の建設が禁止されている区域のこと。但し、農業に供する目的の建物や社会福祉のために使用するものであれば、例外的に建設が認められている。
 
日本の役所の事勿れ主義に辟易し、このように行政担当者には告げた。
大分市の開発許可の行政立法の細則をここに出しなさい。その中には、市街化調整区域に於ける例外規定があるはずであり、開発許可を出せない正当な理由を示せ。君たちは、日本の農業の危機的な状況を分かっているのか?貴方達の言う様に調整区域に農業目的の建物を許可した前例が無いから許可できないと言うのであれば、農業しかできない調整区域は益々、衰退し、農業もやっていけなくなるでは無いか」と・・・
日本の行政(国の法律)は、規制でがんじがらめにされており、身動きが取れない。その運用に当たって、役人達の前例主義や腰の重さはそれを増幅させている。正に規制国家と言われる所以である。
日本の行政及び役所という処は、江戸幕府の役人と一向に変っていない。これが結果として江戸幕府を終わらせた一つの要因であったのだが、このような状況を続けていけば、地域が凋落し、民力が衰え、やがて国も立ちゆかなくなっていくことになるだろう。
これを唯々諾々として受け入れている国民にも大きな問題があると感じていた。何故、正当な権利を主張しようとしないのか、兎に角、一歩も引き下がる考えは無かった。
その後、ようやく約一年間を要して、開発許可を何とか取得したが、私の思いも先行き暗雲が立ちこめていると感じた。
 
衰退していく農業、そして、その再生を行うしか立ちゆかない地域の現状は、暗いものがあり、有機農産物及びその加工品製造によって、何とか地域の衰退を食い止める、との思いから始めた農業であった。
そのために、県内の市町村を回り、首長(市町村の長)に問いかけ、有機農業の勧めやグループ営農の必要性を説いて回り、農業セミナーを何度も開催したこともあった。

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      由布市で開催した美味しい野菜作りのセミナーの風景

 有機農法や自然栽培の話しはメモを取り、熱心に聞いてはくれたが、肝心のグループ営農の話しに移ると、急に熱が冷めていく。一体何時の頃からだろうか、村落で助け合って農業をしていた「結い」の精神の記憶はすっかりと消えていたようだ。
これに失望して、結果として、自らが農園を開くことになったのだが・・・

有機農業の農法の話は、興味を持っている農業者も多く、熱心に聞いてはくれた。但、一人農業では、慣行農業(近代農業)による農産物で占められた巨大流通には立ち向かえないことは分かっており、広い意味の有機農業のグループ営農の必要性を説いてみても、農業者の関心は引かなかった。
農業者に向けた有機農業セミナー開催も無駄だと悟り、自ら農園を開き、ようやく12年間でその橋頭堡だけは確保できた。
唯、12年間も要した。年齢も66歳になっていた。
とても一代でできるとは思っては居なかったが、農業の、自然循環農業の奥の深さは、私の予測を大きく上回っていた。
その思いもあって、グループ営農の拠点を作るためには、どうしても新社屋は必要となっていた。
 
以前は有機農業に関心を寄せていた農家の人達も、歳を取り、気力も衰え、やる気は無くなっていた。その子供達の世代はと言うと、農業そのものを嫌っている。
今や、農業や農地を自分の子供達に受け継いでいくという農業及び農地の基本的な政策や考え方は、すでに崩壊している。
通算10数回の農業セミナー開催を通して、意欲の衰えた既存農業者や農業を嫌う農業後継者を説得していくより、農業を知らない若者達を育てて行った方が早道であると感じていた。

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        大豆生産の後、野焼きをしている風景