農園日誌 Ⅱ 「活きること」ーこれは佐藤自然農園の記録です。

31.1.15(水曜日)晴れ、最高温度14度、最低温度4度

イメージ 1

 長らく、農園日誌を読んで頂きありがとうございました。
今までの農園日誌は、今年からは、むかし野菜のホームページに、(従来の農園
日誌)移行していきます。

今後は、佐藤自然農園の発足当時からの農園主の個人記録として、書かせて頂きます。引き続き、お付き合いをよろしくお願い致します。


「活きること」

2003年7月1日、永年勤めてきた銀行に辞表届を提出する。
同年、4月、次女が就職し、肩の荷が降り、銀行を退職することができた。定年一歩手前の54歳になっていた。

辞表を提出すると、心が浮き立ち、自然と笑みが漏れてきていたのだろう。まだ若い中堅の同僚達からこのように言われた。
「私たちを見捨てるのですか?何故そのように笑っていられるのですか?」
そこで私はこのように答えた。
「貴方達は今まで、上からの理不尽な命令や指示に対して、闘ったことがありましたか?一人闘っている私を、唯、眺めていただけではなかったのですか?私はそんな貴方達に共に闘うことを強いたこともありませんでしたよ。だから、見捨てると言う言葉は当たらない。組織の中で、その不条理さを正そうとするならば、上の意向を重んじるのでは無く、目の前の仕事に、お客様に、懸命に向かい合いなさい。そして、これが正しいと信じたら、どのような方法を採っても達成させなさい。それだけの覚悟と信念が貴方たちにありますか。信念を持って何かをなそうとすれば、何かを失う。失うことを畏れては何一つできません」
どうやら、私は、この銀行の最後の野武士であったのかもしれない。
私が退職した後、次々と有能な人材がこの銀行を去っていったことを友人でもあった人事部長から聞いた。「貴方が悪い。貴方が中途退職したものだから、次々と中途退職者が出たんだ」とも言われた。
その彼もまた、その後、去っていった。
 
銀行に勤めてから2年目にすでに一回退職届を出したことがあった。
その時は、ある女子行員が休暇を取ったことに端を発し、その休暇を許したことを支店長に咎められ、全行で有給休暇の消化運動と言った一大騒動まで発展した。若かった故、企業の古い体質に反発したのだろう。すでにその時から銀行トップや人事部から睨まれ続けていたことになる。
 
イメージ 2

 二番の畑(300坪)に先ずは水菜・青梗菜などの葉野菜を育てた。この畑は、銀行を退職する前から借りており、土作りを行ってきていた。
土作りに使う草木堆肥は、近所の草を刈り取り、下刈りしておいた雑木林から葉っぱを集め、乳業を育てている安部牧場からトラック一杯の牛糞をもらい、フォークと三つ叉鍬を使って高さ1m、幅1m、長さ10mまで積み上げ、約一ヶ月ほど寝かせ、一次発酵(温度が60~70度まで上がる)が終わると、また、フォークなどで切り返し(二次発酵、温度は40~50度)
発酵が思わしくない場合は、さらに切り返し(三次発酵)、ようやく完熟一歩手前の堆肥が完成する。
処が、先生は誰も居ない。試行錯誤の繰り返しでようやくほぼ満足のいく堆肥ができるまでに2年以上は要した。
何しろ、機械は使えず、材料集めから始め、全てが手作業の連続。
この時から、痛めていた腰痛がひどくなっていた。まだまだ、農業の体になっていない。


学生時代に、自分の意思とは関係なく、学生運動の小さなリーダーに祭り上げられ、日米安保闘争といった時代の波に飲み込まれていった。この安保闘争は、アメリカにただ一方的に従属し続ける体制への最後の抵抗であった。
仲間を二人失い、自責の念に駆られ、挫折し、親の面倒を見ると言う名分で地元大分に帰るために銀行員生活を選んだだけであり、すでに片方の親を亡くし、役割は終えたとも考えていたから、退職届を出すことには何の躊躇いもなかったのだろう。
その際、一人の支店長代理からこのように言われて思いとどまった。
「貴方がたった一年で銀行を止めることに対しては何も言うことはない。但し、この銀行に入りたかったであろうもう一人の人に対して申し訳ないと思わないかね」と。
 
当時は、良き時代でもあったのだろう。年俸10百万円を銀行から頂いていた。明日からは唯の一銭も収入は無い。
すでに辞める一年前から約一反の畑を借りていた。さらに言えば、銀行員時代に約40坪の畑を借り受け、約10年ほど、畜糞・米糠油粕・草木堆肥など、様々な農法で有機農業は試しており、「有機物なら何でも良い、化学合成した資材は使ってはいけないなどの、国が定めた有機JAS農業」には懐疑的であり、迷うことなく、古来からの草木堆肥一本しか使わない自然循環農業しか無いと思い定めていた。
銀行を辞することはすでに覚悟していてくれたのだろう妻からは、せめて、もう一年辞めることを伸ばしてくれていたら良かったのに!とのお小言を頂いた。3人の子供を育て、大学にやることによって、借金もし、ようやく借金は返し終えてはいたが、貯金は一銭も無い。もっともであった。

イメージ 3

辞めてからは、毎朝、日が昇ると畑にいそいそと出掛け、日が落ちると、と言うより、当たりが見えなくなると、帰宅する毎日を送った。その当時は、野菜を育てること、それ以上に、土を育てることに一所懸命の毎日であり、土に語りかけ、畑に出ることが楽しくて仕方がなかった。
 
そんなことを一年続けて、育てた野菜もこれならばと言うレベルに達した。
最初に借りた畑も土作りが進み、草木堆肥歴は3年を経過していた。
小学生の時に食べた鼻につんとくる味香り、歯切れの良い食感が私の美味しい野菜の基準であった。畜糞・米糠・油粕・骨粉・魚腸などを使うと、その味香りが消えてしまう。土壌が肥料(窒素)過多となるからであろう。
有機肥料の化学肥料化と、私は称している。
 
実験農業をしていた頃、有機栽培や微生物の専門書や生物学の本を図書館で読み漁った。どの専門書も私に答えは教えてくれなかった。
近くの80歳に近い農業者に師事し、野菜作りの疑問をぶつけてきた。
基本的な野菜の育て方など様々なことを教えて頂いたが、何故こうなるのかは、やはり教えてはくれなかった。と言うより、彼はこう言った。
「それは、私にも分からない。毎年毎年気候は変化している。人間が思ったとおりに野菜が育つわけが無い。畑と向かい合っていると、どうしたら良いかは、自然が教えてくれるだろうよ」と。
こんなことも言っていた。
「わしも何十年と農業をやってきたが、未だに分からないことだらけで、あんたがわかるわけはないじゃろう」
 
そんな時、むかしの農人はどうしていたんだろう?との疑問が湧いてきた。
むかしは、機械も無く、勿論、化学肥料や農薬も無かった。
まだ幼い時に見覚えていた堆肥作りを思い出し、図書館で古書、農業本を探した。あった。でも実に難解で、何を書いているのか分からない。それでも、断片的に伝わってくるものがあった。
そこには、個々の野菜作りではなく、土作りのことが基本に書かれていた。
むしろ、山の芝刈りや葉っぱを集めてきては、2~3年掛りで堆肥を作り、畑に持ち込み、焼いた木や竹や草などの草木灰を振り、唯、土を如何に肥やしていくかと言ったことなどが書かれていた。
しかも何代にも亘って、土を作っていったと言うことが繰り返し書かれていた。

イメージ 4
       夕なずむ畑の風景、帰り難く、しばし眺める