農園日誌ー畑の侍達、後編

29.8.23(水曜日)晴れ、最高温度35度、最低温度26度

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                      農園の夕暮れ

 今日も暑かった。それもまとわりつくようなひどい暑さがやってきている。
皆には無理をするな、と言っても無理をせざるを得ないのだが・・・
夏野菜の管理作業(葱の畝立て・夏野菜の支柱・大豆の土寄せ・黒大豆の土寄せ)
はあと少し残っている。
早く終えて、秋野菜の準備に入らねばならない。
みな、この暑さと新社屋オープンイベントから博多駅前のバザールが続き、増加した
お客様のお試しセットの発送までの一連の作業でかなりバテている。
通常の会社では、辞めていく者が出るような酷な作業が延々と続いている。

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剪定前                       剪定後

茄子の剪定誘引作業
先ずは、一つの株から5~7本の枝を残し、余分な枝は切り落とし、残した枝を重ならないようにテープへ誘引する。この余分な枝の判別が難しい。
誘引を終えると、下まで太陽が差し込むように、過重となった葉っぱや枯れた葉っぱは切り落としてやる。
放置しておくと、花は咲けども、花落ちや実落ちをし、茄子は最初の分しか成らない。
要は、風と光の道を作ってやる作業である。同時にミツバチさんも迷わずに受粉をしてくれるようになる。
最初にこの作業をしておかないと、重なり合った場合は、手に負えなくなってしまう。

この作業が茄子の畝13本、順繰りに回って延々と中秋まで続くことになる。
まさに根気が要り、暑い日中に行うため、ふらふらになる。
立ったり座ったり、腰を屈めたり伸ばしたり、ヒンズースクワットの連続であり、体力も要る厳しい作業となる。


(4人の若き士達)

あるとき、県の主催する「農の雇用事業」の農業事業の雇用説明会に招かれたことがありました。
私としては、特に農業を目指す若い人たちの自立を促すことを一つの事業目的にしており、一人でも多くのそんな若者を探すためにその説明会へ参加したのでしたが、会場に集まっている約200余名の人達の前でむかし野菜の邑の取り組みについて説明していた時に、大きな違和感を感じてしまいました。
しゃべる気力が無くなっていくことが自分でも分かり、困った記憶がある。
 
彼らの目の奥には、何かを求めている、あるいは、何かを探しているといったような熱い心の叫びが見えなかった。良い条件の働き口はないものか、それしか求めておらず、自分の生きる目的やどう生きていくのか、そこにはどのような夢があり、社会的に存在する価値があるのか、などなどの「欲」を感じなかったからです。
 
今から40数年前、私たちが社会に出た頃は、良い会社に入って認められて少なくとも会社の役員くらいにはなりたい、などと、立身出世や独立をめざしていたものだ。
今の時代は、どんなに一生懸命に働き成果を出せたとしても、結局は、上司やトップに気に入られるかが、出世のポイントにしかならない。成果は上司に吸い取られて、トップは自分の保身や業績のことばかりを気にしており、一生懸命に努力している社員には中々日が当たらない。
そういう意味では、今の若者達はかわいそうである。もっとも私もかってはその若者と一緒ではあったが・・・
社会が爛熟期になってくると、若者の夢はそういった社会の中では、小さくなり、楽な生活と余暇が欲しいと、なってしまうのかもしれない。会社も社会的責任やその存在価値などを唱えることも無くなっている。
 
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機械化した近代農業では、管理機を使って土寄せ作業を行うのだが、少しでも有効な面積が欲しい高集約化農業では畝間も狭く、鍬で行っている。
第一、人の手の方がきれいに畝上げができる。

それでもそんな風潮に染まりたくない若者もいる。所謂、自己の存在を問える場が欲しいと考えている若者達も必ず居る。
私もかっては銀行員時代、その葛藤があり、飢えていたのかもしれない。
「むかし野菜の邑」はその葛藤や飢えている若者達にその場を提供できる存在であり続けたいと願って設立した会社である。と言うより、「共同体」作りを目指している。
私は以前から、一生懸命に働き、成果を出している者は必ず報いられる共同体を作ろうと考えていた節がある。
青い考え方かもしれないが、夢があり、自由があり、競争があり、自己実現ができるグループが有って欲しいと願っている。
 
かって、新渡戸稲造が、米国人から日本には宗教は無いのですか?と聞かれたことがある。
確かに、古来から神道はあるが、人の心を律するような宗教はない。
すると、それでは、日本は営利や損得のみであり、自己の欲望を制御できる規範が無いことになり、野蛮な国となりますね。と言われ、端と困ったそうだ。
新渡戸稲造はこう答えた。「日本には宗教は無いが、武士道があります。武士道は恥を知り、己を律し、自分の道を極めていく」と。米国人はそれでは、キリスト教と同じ効果が出ますね、と答えたそうだ。
となると、先に関東のマルシェ運営の会社社長が言った、武士のように見えた、と言うことは、当農園のスタッフ達は、己を律し、自然循環農業を見据え、結いの仕組みを体現し、その道を究めようとしていることになるのかもしれない。少し褒めすぎかな・・・

すべての若者とは言わないが、少なくとも自分の生き方を探し、自分らしく生きたいと願っている者には、その場を作ってやりたいと思っている。
彼らにとっても、今が試練の秋かもしれない。

今後は益々厳しさを増した生き方を、ワークを強いることにはなるだろうが、
このまま真っ直ぐに前を見て進んでいって欲しいと願う。