農園日誌ー

28.9.21(水曜日)晴れ、後曇り、最高温度28度、最低温度20度

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        今年も大分市野田の里に曼珠沙華が咲き始めた

 台風一過、寒ささえ感じるような夕方から朝の温度となる。
スタッフ全員の台風対策としての誘引作業や補強作業のおかげで、大きな被害も無く、思ったほどの大風も吹かず、畑は平穏無事に時間が流れている。
きっと天の神様が憐れんでくれたのだろう。

農園は本格的な秋野菜の植え込み・種蒔きの時季に差し掛かっている。

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収穫後、発送作業チームとは別に、研修生を中心とした畑チームが
胡瓜の棚の撤去作業を行っている。

この後、夕方まで、
コブシ(しつこい雑草)の除去作業を行う。明日の畑作りや人参・ほうれん草などの種蒔きのために・・(二番の畑



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9月は秋野菜の種蒔き
の適期ではあるが、
ご覧の通りに、露地栽培の場合、高温と秋雨前線が停滞し、湿気のため、蒸れが発生し、
成長しかけた葉物野菜が溶け始めている。

さらに虫が異常発生し
芯を食べてしまう。
それらの自然の試練により、何度も蒔きなおすことも多い。

お客様も少しでも早く葉物野菜が欲しがる。農園も無理をして葉物野菜の種を蒔く。
この繰り返しが近年の露地栽培であり、自然農の現実です。
正常に秋野菜が育つ環境になるには、10月を待たねばならない。
それほどに気候変動は緩やかにかつ、激しく、確実に野菜の生産環境を変え始めている。


 「社会的存在価値」という言葉がある。
人は個人であれば、生きている意味や価値を論じることは意味が無い。あるとすれば、生き甲斐ということである。
趣味だけで生きることは、社会に関与しているわけではない。
お金儲けが生き甲斐であれば、人に迷惑をかけねば好きにするが良い。
人と関与し続けて、あるいは、社会の中で何かの役割を担っていると感じることが生きていることであり、生き甲斐ということではないかと思う。
今日、サツマイモと里芋や栗の先生が初秋の味覚である栗を届けてくれた。
勿論、お客様に届けている商品として、
「先生、10数年前に、この栗やサツマイモを佐藤自然農園でお客様へ、届けてみないですか?と言いましたよね」と聞いた。
「そうじゃったな!はじめはそんな売り物にしてもらわんでもよい!と言ったな」
「先生、今、元気に畑に毎日通っているよね。もしあの時、声を掛けねば、退職しての老後の生活はつまらんものになっていたのではないかね」
「そうじゃ!わしも社会にあんたのおかげで何か貢献しているのじゃな。もしあの時の話が無かったら、毎日テレビの前ですわっていたじょろうね。つまらん人生を過ごすことになったじゃろう」と・・・しみじみ話していた。

 それが会社及び団体(公共団体も含めて)となると少し意味が変わってくる。
「会社は金儲けをしていれば良い」「役所は決められたとおりに動けばよい」などと、
言っていれば、社会の中で、存在する意味も無いことになる。
この「生き甲斐」と近い意味が「社会的存在価値」ということになる。

昨今では、悲しいことに社会的存在価値の無い会社や団体が急増している。
そこで、上ばかり気にして働く個人は、さどや、生き甲斐なんどは、ついぞ、感じることは無いだろうに!彼らはきっと寂しい人生を過ごしているのだろう。

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      じゃがいも・大根・蕪などの秋野菜の種を蒔いた圃場(5・6番の畑)

この時季、圃場では、夏野菜と秋野菜が同居している。
季節の移ろいを一番感じる季節を迎えようとしている。
今日も、こぶし取り(雑草)をしていると、午後6時を回ると急に辺りは暗さを増し、
「もう見えん」帰ろうと、作業小屋へ向かう。

暑くて暑くて体に堪え出す歳になってきた。早く涼しくならないかと念じていた。
涼しさを増すこの季節になると、今度は日の落ちる時間が早くなり始め、作業時間が取れないとぼやく。真に勝手な農園主ではある。

 農園の若手スタッフ達は、農園主となる未来が見えているのか、はたまた、生きる目標が見えてきているのか、みな、文句ひとつ言わずに、黙々と働いている。
自然と語らうこの農業(農法)をまさしく社会的存在価値として肌で感じているのか、
おそらくは、生きていると実感しはじめているのだろう。
であれば、嬉しいと農園主は一人思うとともに、早く楽をさせてほしいと思うのも、
歳のせいか。