農園日誌Ⅱー「活きること」PART21

2019.6.12(水曜日)晴れ、最高温度26度、最低温度18度

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         初期設定(剪定誘引作業)を終えたフルーツトマト

 今年はトマトが良い。降雨量が少なく、晴れた5~6月の気候の影響。
代わりに茄子・ピーマン系・胡瓜などの成長が遅く、茄子などはようやく生きている
状態で、太らない。

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胡瓜は二回植え替えた。二回目は雨を待って植え替えたのがよかったのだろう。
ようやく個々までに成長した。

毎年、気候が変る。もう慣れっこになってしまった。これからの農業、特に露地栽培は、先ずは、気候の先読みから始まる。それに対応できただけ野菜が育つ。
今までの気候のセオリーは通用しない。但、経験を積み重ねることは大切であり、
要は、その経験値の応用力が試されているのかもしれない。


「活きること」PART21

2017.4.30.  むかし野菜の邑のオープニング

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朝から大勢のお客様がお見えになり、農園のお披露目に合わせた収穫体験は主には、子供さん達が主役となった。
 
最初は、新築記念のセレモニーも考えたが、やはりうちに似つかわしくないと思って、かって開店10周年に協賛させられた福岡のフレンチレストランである「ジョルジュマルソー」へ、一緒に、むかし野菜の邑オープンに参加しないかと問いかけた。
招待客は、既存の定期購入のお客様とマルソーのお客様達、県及び市職員・金融機関の社員・地域のお年寄りの方々とした。

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この日に合わせてマルソーのスタッフ全員が駆けつけてくれた。何しろ、高級フレンチがこの農園で楽しめるのだから・・
 
来園者は120名程度と予測して、その受入の準備作業に入った。
椅子・机は白木の手作りのものを用意する。スタッフは鍬から金槌に持ち替えた。
広報・販促活動のスタッフは、スコップから筆に持ち替えて看板からチラシ等の準備に忙しい。
農園ランチは、女性スタッフ達の仕事。今まで農園体験で培った料理の集大成となり、麦ご飯を竈で炊き、作り溜めた乳酸発酵の漬物を添え、春野菜の様々な総菜を用意する。食器も新たに買い足した。
おやつには、古代小麦や中力小麦をブレンドしたやせ馬に同じく自然栽培の大豆を焙煎し、黄な粉を作る。お茶は、裸麦を焙煎し、麦茶を用意する。
さらに、麦の味香りのする素材感豊かな皮で、春野菜を包む野菜万頭を作る。
何しろ、飲食店並の量と種類の食べ物を用意しなければならないから、大変である。
 
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ご覧の有様。ごった返し、餅搗きあり、団子汁あり、やせ馬(小麦粉を湯がき、黄な粉をまぶす)あり、その賑やかなこと賑やかなこと。
勿論この後、マルソーのフレンチ量に舌鼓を打った。


参加者は、思いの他多くて180余名に昇り、ぎゅうぎゅうのすし詰め状態となってしまった。
かねてからお付き合いのあったKBC九州朝日放送・地元OBS放送なども取材に駆けつけてくれた。
農園での収穫体験の後、農園ランチとフレンチの共演となり、来園された方は、お腹いっぱいの笑顔で帰って行かれた。準備やおもてなしにスタッフ達はやつれ顔だったが、他方では、チラリと誇りの笑顔も覗かせていた。
 
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マルソーのオーナーシェフに無茶振りをして、家庭で出来るフレンチなどの実践を即興でやってもらった。みんな興味津々ではあった。


一夜明けて、ようやく農園の日常が戻ってきた。
これからが実は大変である。
むかし野菜の邑のメンバー構成は、二つのグループに分かれる。
 
一つは、外部の協賛農業者達で、みんな、自然循環農業を行うメンバー、数人は出資者となり、共同出荷を行う。

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・自然栽培のお米と梨を生産している(彼には年長者であり、社長を引き受けてもらっている)

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・露天原木椎茸栽培(庄内産の餅米で丸餅を製造してもらっている)

・南瓜・さつまいもを主力としている、
・栗・さつまいも・里芋・かぼすを主力としている、
・南瓜を主力としている、
・山菜採りの名人も加わっている等々の農家の面々。
それぞれが、得意の分野で農産物をむかし野菜の邑の出荷場まで持ち込んでくる。
 
二つ目のグループは、インナーの農園主やスタッフ達。
佐藤自然農園は、年間百種類以上の野菜を生産するむかし野菜の邑の中核農園、すなわち私である。
男子4名の将来的に農園主として独立していくスタッフ達。
女子3名のむかし野菜のスタッフ達。
このインナーのスタッフ達は、共同生産・共同出荷・共同加工を行う。
このグループは、「結い」の相互扶助を理念として、働いた分は等しく分配を受け取れる仕組みとして完成させていかねばならない。
このグループはむかし野菜の邑の中核を担う農業後継者達である。
 
この邑では、農業の知識経験も無く、資金力も持たない若者達が、身一つで飛び込め、数年を掛けて
独立し、10年を掛けて、自立していくことをその事業の核にしている。
さらには、自然循環農業を市場に広め、多くの消費者に理解して頂かねばならない。
スーパーに常に並んでいる比較的安い農産物を食べ慣れた消費者に理解してもらうことは簡単ではない。
我々がどれだけ手間と労力をかけて、安全かつ健全な農産物及びその加工品を作ったとしても売れるとは限らない。有機野菜であろうが、自然栽培であろうが、消費者は概念で食べ続けられるものではない。
やはり野菜や農産物は、栄養価が高くて、美味しくて、品揃えがあって、食べて楽しいものでなければいけない。そして、何より、体が美味しいと言ってくれなければ高品質農産物とは言えない。
そうした努力や価値を評価して頂ける消費者を味方に付けることがもっとも重要となる。
そうしない限りは、折角復活させた自然循環農業は、そして、日本の先人達が作ってきた健全かつ高品質な農産物作りは、結局は消滅していくことになる。
健全かつ持続可能な農業生産者とその農産物を支持してくれる消費者達は一つのグループ、仲間達と考えている。このことが、むかし野菜の邑の精神であり、思想なのです。
 
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この精神や思想を一方的に若い農業者に押しつけることはできない。何しろこの労力の塊のような農業を維持し続けること、及び消費者との絶え間ないコミュニケーション活動には、不屈の精神力が求まられます。これが農園主の大きな命題であり、苦悩となるのです。
必然的に、むかし野菜の邑は、生産する農産物の品質のことを消費者市場に知ってもらうため、絶え間ない市場啓発・啓蒙活動をし続けていかねばならない大きな命題を抱えている。
 
農園主は、今までの数多くの消費者とのやりとりの中で、こう考えている。
自然循環の農法(低窒素・高ミネラル)で育てた野菜及び穀類は、それぞれの農産物固有の味香りがあるものなのです。そして、甘さだけではなく「旨み」があります。
所が、野菜であれ、穀類の加工品であれ、消費者や料理人達は、その農産物固有の味香りの無さに慣れすぎており、つい、味付けを濃くする習慣がついてしまっていることです。調味料・ドレッシング・旨み調味料などです。
その感覚や意識は、農園主も農業を始める以前はそうでした。
一つの例として、麦を草木堆肥で育て、始めて、麦ご飯として食べた時でした。

炊きあがったご飯を噛みしめたとき、今まで感じたことのない味と香りが口いっぱいに拡がっていきました。これには、我ながら驚きでした。裸麦を焙煎し、麦茶として飲んだときはさらに驚きました。
本来の麦って味香りがあったんだと・・・
これが美味しいと言うことなのだと改めて実感させられました。
消費者の感覚や価値観も様々です。この美味しさが口先だけのものなのか、体が美味しいと感じているのか、この違いは大きいように思います。
そして、美味しいとは、健全で、かつ、栄養価が高い農産物であることを決して忘れてはならないと思います。

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農園日誌Ⅱー「活きること」PART20ー本社社屋建設

2019.6.5(水曜日)晴れ、最高温度29度、最低温度19度

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                       麦物語

 今年も第一陣の麦の収穫を行った。
早速、皆様に焙煎した麦茶をお送りした。折悪しく蒸し暑い日々が続き、汗を流しながらの焙煎作業であった。
麦茶は当農園では裸麦で作る。市販のもの(大麦)とは異なり、一味違う味と香りがしてくる。たとえて言えば、暑い盛りにごくごくと飲み干すのではなく、テーブルの上に茶托を置いて、ゆっくりと味わう。そんな表現がぴったりとくる味です。

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早速、お客様から催促のメールが届く。
「麦ご飯セットはまだでしょうか?待ちきれなくてご連絡を致しました」
これは裸麦8:古代麦2の割合でブレンドした麦ご飯です。お米カップ1杯に大さじ
1が基本にします。これも香しい味と香りがするご飯となります。

さらに農園の直売所で、お客様から催促がありました。
これが表題の写真の野菜万頭です。
具の中には、キャベツ・玉葱・乳酸発酵の漬物などが入っており、それはそれで美味しいのですが、何といっても、この万頭の特徴は、皮にあります。
噛んでみると、最初は具の美味しさが出てきますが、最後は皮の味、即ち、麦の香りが突然と表れてくるのです。
これは、中力小麦8;古代小麦2を粉にしたものです。

麦の圃場(大豆も同じ)が草木堆肥による土作りが進んで、一段と美味しくなりました。むかしの人達は随分と美味しい穀類を食べていたんだな!と実感しております。
課題なのは、低窒素自然栽培であるため、収量が慣行農法(化学肥料や牛糞)に
比べて半分もしくは2/3にしかならないことです。


「活きること」ーむかし野菜の新社屋建設
2016.12.22 六次産業化事業育成補助金の交付

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軒下二間(360センチ)、広い外空間がある。ここには、玉葱・にんにく・干し大根と野菜が大量にぶら下がる。所謂、乾燥ヤードとなり、同時に、野菜などの整理を行う。農家にとっては大切な土間となる。この空間が以前より欲しかった。
イベントやセミナーなどの際は、机・椅子が所狭しと並べられる。
この空間にも農林水産省はかなりしつこく問い合わせがあった。

 
大分市へ社屋建設に向けた開発許可手続きを進めながら、六次産業事業育成補助金の申請・折衝を行っていた。
国の補助金など始めてのことで、適合資格や前提条件などがやっかいなことは覚悟はしていたものの、これがまた、開発許可申請以上に規則・適合基準判断の狭さや前例主義に阻まれた。
民間の常識ではあり得ない役人の常識があるらしい。
 
設計図と施設利用計画書を送ると、施設の利用図を提示するようにとして、大分県及び大分市を通じてこのような回答があった。
 
①更衣室や事務所は補助金対象外であり、事務机・ロッカーは置けない。
②社員用便所は対象外。
③多目的施設や部屋は認められない。使用目的を限定すること。
④外部への排水施設工事一式は対象外。
 
この施設は、集荷した野菜の整理ヤード・箱詰めなどの出荷ヤード・農産物の加工ヤード・製粉室及び竈や麹部屋・加工品及び野菜のストックヤード・訪れた子供連れの休憩ヤードからなっていた。
 

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この施設は、常には、農産物の収穫整理及び発送作業を行うが、時には、加工作業・加工品のストックヤードとなり、農産物直売所となる。
そのため、温もりのある施設にしたかった。

①②の更衣室や休憩ヤードは補助金対象外建物として、別途建築することにして、社員用便所もそちらに付けた。④はこちらで折衝する事を諦めた。
この時点で、補助金2/3に減額されたため、当初計画していた借入金は7百万円増加し、計画していた収支計画や返済計画は大きく狂っていた。
 
国や県の対応が余りにも紋切り型で官僚的でもあり、補助金申請を断り、施設計画も変更を決意して、熊本の農政局支所(九州の本部)へ質問状と共に、大分へ出向いてくるように強く要請した。
県及び市の担当者同席の上、熊本農政局の担当者と向かい合い、その場で、このように切り出した。
 
「貴方方は、国の農業振興を担う重要なポジションにおられる。日本の農業は大きな曲がり角に来ており地域農業の壊滅の危機に瀕している。農業者が真に独立しなければ、今後の日本の農業は衰退していくしか無い。そのための、一次産業である農業生産と二次産業である加工産業及び販売サービス産業である
三次産業の融合を目指しているのが、この六次産業化ですね。その点の確認ですが、よろしいですか?」
 
皆を見回していると、市の担当者だけが納得している顔をしていたが、他は渋々一様に頷く。
 
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竈(おくどさん)は、昔の農家にはみなあった。
職人さんがかなりこだわってくれて、このような味のあるものになった。
ここは、味噌作り(米を蒸し、麹を作り、大豆を蒸し、味噌を仕込む)には大活躍することになる。
年に数回繰り返す農園体験会・セミナー・料理体験会などでは、美味しい美味しい竈炊きの御飯ができる。

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かなり雑然としているが、ここには、乾燥機・製粉機・精麦機・大豆等の色彩選別機・篩機などがあり、穀類にとってはもっとも大切な施設となる。

「トイレ・更衣室・事務所などが無い施設は、最早、事業所でも無く、福利厚生以上に問題である。
この点において、貴方方と議論するつもりはありませんし、その補助金を認めなさいと言うつもりもありません。呆れかえって、諦めました。この補助金というものは、私達の血税からなっているものであり、社会の常識とかけ離れた貴方達役人の恣意によって運用されるものではありません。
今日お呼びしたのは、多目的利用は補助金として認めないと言う一点です。
そこでお聞きしますが、この六次産業化の補助金は一体誰に対して助成するものですか?
貴方方の言い分をお聞きしていると、一つのスペースを一目的にしか使用してはならないと言われておりますが、大量生産を行う大企業ならば、そうでしょうが、この補助金を活用する農業者は元来が零細企業ですよ。例えば中央の一つの小さなホールは、ある時は、野菜の整理ヤードであり、それが終わると今度は出荷ヤードとなり、別の時は加工品製造ヤードになり、またある時は、お客様への売り場に変ります。お昼などはスタッフの昼食ヤードにも変ります。
そうしなければ、莫大な投資を余儀なくされ、中小零細企業は成り立ちません。
この施設は、私の個人事業では無く、地域活性化・農業の振興・農業後継者の育成・グループ営農による農業者の自立を目的にして、一部個人の資材を投入し、国の補助金助成を求めたものです。
この計画は大きく遅れてきており、実質損害も発生しております。これ以上議論する時間も余裕もありませんので、今すぐに回答を求めます。そうでなければ、この補助金申請は今日引き下げます。
但し、その際は貴方方も覚悟しておいて下さい。国の六次産業化育成事業の補助金は、その適用において大きな問題を抱えていることやこの交渉経過や子細を、本局に抗議に行きます」

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庭は、農園主の手作りです。昔取った杵柄と言うか、学生時代、造園会社に
下宿しており、そこで3年間、庭作りのアルバイトを行った経験があり、それが役に立った。

 
実に疲れたやりとりであり、不毛の議論でした。
この後、大きく減額は受けたものの、何とか補助金は認められ、とにもかくにも、むかし野菜の邑の新社屋着工に漕ぎ着けた。
 
国の様々な補助金助成金は、不正利用を排除するために、ある程度は制約を加えざるを得ないのは分かるが、あまりにも硬直化しており、汎用性に乏しく、現実に即さない形で過度に限定し過ぎている。
そのため、その施設は、事業者が意図した用途に使われにくくなったり、無駄が多くなったり、資金が掛かり過ぎたりして、紋切り型の事業となり易い。この国の形は、どこかおかしい。
何より、与えているとの意識は、国会議員や公務員が公僕であると言うことを忘れている現れであろう。
 
市の開発許可取得、規制だらけの補助金申請に難航し、予定より一年半も遅れて、ようやく、新社屋が完成した。担当してもらっている公認会計士から、「佐藤さんが、まさか制約だらけの国の補助金の申請を行うなんて、国の補助金行政は、使う会社はほぼ限定されており、優良企業は使いませんよ」とも言われた。
とは言っても、小さな農業グループに、そして先も残り少ない農園主が数千万円の投資をして、農業の未来を託すべき若者達の将来のために、新たな事業と仕組みを作るのだから、やはり負担はできうる限り、少ない方が良い。唯、その交渉折衝は私にとって苦痛であり、上から目線の態度は屈辱的でもあった。

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保冷庫が二つ。その一つがこれです。収穫した穀類・じゃがいも・玉葱などを10度以下にてストックしておく。もう一つが漬物ヤードです。
この保冷庫ができたおかげで、安心して農産物や加工品を保管できるようになった。

農園日誌Ⅱー「活きること」-PART19ー新社屋建設へ向けて

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                     トマトの剪定誘引作業(5番の畑)

 今年もトマトの管理作業の季節になった。
日差しは5月と言うのに強く、畑に這いつくばって作業をしていると、ふーっと意識が遠のくような感覚に襲われる。熱中症の症状である。次にはクシャミが出て、あくびが出る。ついには、寒気がし始め、悪寒が走る。
もっともそうなる前に水を飲み、軽トラックに逃げ込み、しばし、休むことにしている。
他のスタッフは出荷作業に追われており、日中炎天下の一人農業となる。

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         これは本支柱を立てる前のトマトの初期設定作業

斜め45度にトマトを傾け、一つのトマトに3~4本の枝を伸ばすための準備作業。
枝を左右に振り分け、角度を変えて枝が交差しないように伸ばしていく。
根元に近い葉や重なった葉っぱは落とし、風の通りを良くし、太陽の光を木漏れ日のようにトマトに当ててやる。かなりな経験が必要となる。
ハウス栽培の場合、ベテランの農家は13~15段までトマトが成るように設定する
露地栽培の場合は、雨風に晒され、とてもそんなに枝を伸ばすことは出来ないが、
それでもうまく初期設定作業ができると、10段近くまでは可能となる。
枝の長さは最大5メートルにまで伸ばすことが出来る。


「活きること」ーPART19ー本社社屋建設に向けて

2015.4.20  開発許可の取得
 
2003年に佐藤自然農園を開いてから12年が経過していた。
この頃、定期購入のお客様は飲食店8軒と個人220余名であり、全て直接販売であった。
この頃、直販型の有機野菜生産農園は一農園に100余名の個人客と飲食店数軒といった規模が、実情であり、全て家族経営で行っていた。その通常モデルから考えると、当農園は、かねてから考えていた次の段階、グループ営農集団を形成していく時期にきていた。
そのためには、佐藤自然農園が生産から販売・加工を全て行うことを止め、新たに(株)むかし野菜の邑を設立し、その販売と加工部門を会社に担わせ、当農園は一生産農園の位置に置くべきであると考えた。
現状は、当農園がむかし野菜の邑の販売額の85%を占めており、この比率を下げるべく、この会社に参加している個々の農業者の力を強くしていく必要がある。
また、当農園を研修終了後、若者達を農園主としての独立させるため、彼らの育成に全精力を注ぐことにした。

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偶々、国が六次産業育成事業(補助金助成)を行っていることを地域振興局から知らされ、又、その申請の打診があり、(株)むかし野菜の邑の新社屋建設を行うことにした。
これ以前から、無添加醸造味噌・乳酸発酵の漬物は製造しており、その貯蔵する保冷庫を必要としていたため、製粉機・乾燥機・精麦機・色彩選別機などの施設と併せて、農園直売所・出荷ヤードも兼ねて
数千万円の建設予算を組んだ。
農産物全売上が18百万円に比べて大きな投資となる。国や金融機関からはやや無謀ではとの意見もあったが、自信はあった。銀行員時代、総借入額が売上の2倍以上になると危険と言う判断基準がある。
そのことを見越して、生産面では、穀類の増産と、その加工品製造を企図してきた。さらに、特定市場に向けたコミュニケーション戦略(販路拡大)も考えていた。
 
社屋建設予定地は、佐藤自然農園の作業小屋に近接する大分市の市街化調整区域内にあり、開発許可が必要であるが、その許可申請において、大分市の開発課との交渉折衝は難航を極めた。

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          むかし野菜の邑新社屋建設地

雑木林の覆われていた用地は切り払われ、業者によって切られた雑木は全て堆肥場にて燃やして、草木灰とした。
向こうに見えているのは、社会福祉法人の建物。社会福祉法人の施設の場合は良くて、農業施設には難しいと言うことは無い筈。

※市街化調整区域とは、市が上下水道の設置が困難な場所に設定した区域であり、基本的には、住宅や店舗の建設が禁止されている区域のこと。但し、農業に供する目的の建物や社会福祉のために使用するものであれば、例外的に建設が認められている。
 
日本の役所の事勿れ主義に辟易し、このように行政担当者には告げた。
大分市の開発許可の行政立法の細則をここに出しなさい。その中には、市街化調整区域に於ける例外規定があるはずであり、開発許可を出せない正当な理由を示せ。君たちは、日本の農業の危機的な状況を分かっているのか?貴方達の言う様に調整区域に農業目的の建物を許可した前例が無いから許可できないと言うのであれば、農業しかできない調整区域は益々、衰退し、農業もやっていけなくなるでは無いか」と・・・
日本の行政(国の法律)は、規制でがんじがらめにされており、身動きが取れない。その運用に当たって、役人達の前例主義や腰の重さはそれを増幅させている。正に規制国家と言われる所以である。
日本の行政及び役所という処は、江戸幕府の役人と一向に変っていない。これが結果として江戸幕府を終わらせた一つの要因であったのだが、このような状況を続けていけば、地域が凋落し、民力が衰え、やがて国も立ちゆかなくなっていくことになるだろう。
これを唯々諾々として受け入れている国民にも大きな問題があると感じていた。何故、正当な権利を主張しようとしないのか、兎に角、一歩も引き下がる考えは無かった。
その後、ようやく約一年間を要して、開発許可を何とか取得したが、私の思いも先行き暗雲が立ちこめていると感じた。
 
衰退していく農業、そして、その再生を行うしか立ちゆかない地域の現状は、暗いものがあり、有機農産物及びその加工品製造によって、何とか地域の衰退を食い止める、との思いから始めた農業であった。
そのために、県内の市町村を回り、首長(市町村の長)に問いかけ、有機農業の勧めやグループ営農の必要性を説いて回り、農業セミナーを何度も開催したこともあった。

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      由布市で開催した美味しい野菜作りのセミナーの風景

 有機農法や自然栽培の話しはメモを取り、熱心に聞いてはくれたが、肝心のグループ営農の話しに移ると、急に熱が冷めていく。一体何時の頃からだろうか、村落で助け合って農業をしていた「結い」の精神の記憶はすっかりと消えていたようだ。
これに失望して、結果として、自らが農園を開くことになったのだが・・・

有機農業の農法の話は、興味を持っている農業者も多く、熱心に聞いてはくれた。但、一人農業では、慣行農業(近代農業)による農産物で占められた巨大流通には立ち向かえないことは分かっており、広い意味の有機農業のグループ営農の必要性を説いてみても、農業者の関心は引かなかった。
農業者に向けた有機農業セミナー開催も無駄だと悟り、自ら農園を開き、ようやく12年間でその橋頭堡だけは確保できた。
唯、12年間も要した。年齢も66歳になっていた。
とても一代でできるとは思っては居なかったが、農業の、自然循環農業の奥の深さは、私の予測を大きく上回っていた。
その思いもあって、グループ営農の拠点を作るためには、どうしても新社屋は必要となっていた。
 
以前は有機農業に関心を寄せていた農家の人達も、歳を取り、気力も衰え、やる気は無くなっていた。その子供達の世代はと言うと、農業そのものを嫌っている。
今や、農業や農地を自分の子供達に受け継いでいくという農業及び農地の基本的な政策や考え方は、すでに崩壊している。
通算10数回の農業セミナー開催を通して、意欲の衰えた既存農業者や農業を嫌う農業後継者を説得していくより、農業を知らない若者達を育てて行った方が早道であると感じていた。

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        大豆生産の後、野焼きをしている風景


農園日誌Ⅱー「活きること」ーPART18ー

2019.5.22(水曜日)晴れ、最高温度27度、最低温度17度

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             古代小麦(弥富もち麦)をブレンドしたパン

 むかし野菜の邑の麦作りは4年目に入った。
土もほぼ出来てきており、品種改良をしていない古代小麦(原始一粒麦)の生産も軌道に乗り始めた。
そんな中、北九州の「いちかわ製パン」とのコラボにより、試作パンができた。
麦生産に入る中、いつかは、アレルギーや現代病に苦しむ子供さん達に抗体反応しないパンを作ってみたいとの思いがあり、ようやく市川さんとの出会いにより、それが実現した。
これから、試作を進め、さらに美味しい「食事パン」ができれば嬉しい。

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           左側の紫色をした麦が古代小麦(弥富)



・菓子パンやふわふわパンではなく、食卓パンとしてハード系とする。
・外はカリカリ、中はしっとり、水分多目に、ぱさぱさしない、もちもち感
 のある新しい食感。
・麦(穀類)の生命力を頂く、芳醇な味と香りのする素朴で美味しいパン作
 りとする。
・加えるのは塩と水で、バターや砂糖を極力抑える。若しくは加えない。
・小麦の味香りが引き出せる草木堆肥による自然栽培の麦を一定の割合で加
 える。
(南の香り(九州産強力粉)70%以外は、日本在来の古代麦(弥富もち
 麦)と九州原産中力小麦を30%加える)
・小麦アレルギーなどの現在病に苦しむ消費者(特に子供さん)も安心して
 食べられるものを目指す。

2016.12.3  麦作り(野焼き・畑作り・種蒔き)

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由布市挟間町古市の田圃3.5反を借り受け、先ずは、ブッシュとなっていた圃場の草を刈り、野焼きをする。
できるだけ、風の吹かない夕方を狙って火を付けた。それでも、新興住宅地の方からは、クレームが寄せられた。地域の方は流石に農業そのものを理解しており、荒れた田圃を借りてくれて感謝してくれていたのか、容認してくれただけではなく、「ご苦労様頑張って」と言って差し入れを頂いた。


 佐藤自然農園にて、大豆・麦・トウモロコシ・黍粟などの穀類生産を始めたのは、2012年頃からで
あった。当時は、実験栽培であったが、2014年、由布市庄内地区に4反の圃場を借り受け、無添加醸造味噌の量産を図るため、本格的な穀類生産に着手した。お米は平野さんの自然農米、大豆は草木堆肥の自然栽培、塩は海水塩(減塩)を使用し、完全なノン化学物質の醸造味噌と言えば、おそらくは、当農園しか無いであろう。味は、どうかって?それこそ愚問であろう。ある方は、もったいないと言って、出汁も取らず、この味噌だけで味噌汁を作っているそうだ。

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自然栽培での大豆の生産が雑草に覆われたり、長雨・干魃にたたられ、思うように生産量が増えないため、定期購入のお客様の熱い要望に応えられず、年に3~4回、しかも一回当たり、わずか300gしか送れないと言った状況が続いた

その後、由布市狭間町古市に、卒業生の後藤さんと田圃二枚、合計4反の圃場を確保し、麦・大豆の生産も本格化していった。
県の地域振興局に相談しながら、麦生産のノウハウを集めてきた。と言うのも、米国の農学博士が「小麦(パン)を食べるな!」と警告していたことや、以前は無かったはずの小麦アレルギーの多発に、何とかアレルギーに苦しむ子供達に救いの方法は無いのか?と考えていたからである。
何故、小麦アレルギーが多発しているのか?アレルギー反応は、異物が体内に入ってくるとそれを攻撃する抗体の過剰反応であることまではわかっている。ではその異物とは何なのか?小麦タンパクが幾つかの複合汚染によって、抗体が異物(危険)と判断していることにその要因があるのではないかと言う可能性が高いのである。
穀類生産中に畑に投与される除草剤・農薬・高窒素肥料・化学物質、あるいは、流通段階で投与されるポストハーベストの問題もあろうが、ハイグルテン(高タンパク)に持って行くために、何代にも亘って品種改良がなされ、事実上、ハイグルテン遺伝子に組み替えられたことも大きな要因になるのかもしれない。
そこで分かったことは、
先ず、遺伝子組み換えの小麦や大豆は、種子としては、まだ日本には上陸していないこと、日本在来の種子であれば、問題は無いこと。
 
※ここで言う遺伝子組み換えとは、こうである。
例えば、大豆生産(小麦も同じ)をする場合、先ずは、除草剤を撒き、雑草を抑える。
問題となるのは、大量な除草剤を使っても死なない大豆が必要となり、除草剤に耐える遺伝子を持った大豆の種子を作ることになった。これが除草剤に耐えうる遺伝子組み換え大豆である。
遺伝子組み換えだけが問題となるのでは無く、危険な枯れ葉剤を吸い込んだ大豆(麦)を食することにも大きな問題があると言うことです。
 
次には、米国では、小麦がハイグルテン(高タンパク)になるように品種改良を重ねていること。その点では、日本在来の麦は、安全では無いかということ。何故なら日本の気候ではハイグルテン仕様の強力粉
や逆に薄力粉の生産が難しいことにある。
但、麦は肥料食いであり、振興局や農業普及所では、肥料を多く撒き、必ず追肥もするように指導はしているが、中々、それに応じる農家も少ないと言う。理由は簡単である。兎に角、麦・大豆の生産価格は安いため、農家も割に合わないことはしない。

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        由布市庄内の4反の畑の麦踏みの風景

8人で踏んでも半日近くかかる。足は棒のようになり、冬だというのに汗だくになる。

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           黄金色に染まった麦畑

5月下旬から6月の初旬頃麦刈りとなる。梅雨入り前に刈り取ってしまわねばならない。
ここ庄内では、麦畑の風景はここだけと寂しい。
専業農家も一集落に一軒くらいしか無く、この長閑な田園風景は近い将来、消えて行ってしまうのかもしれない。

ここで問題であったのは、私は、穀類生産においても、化学肥料・農薬だけではなく、通常何処の農家でも使う除草剤も使いたくは無い。また、高窒素栽培の弊害は分かっており、あくまでも草木堆肥と言う低窒素栽培しか念頭には無かったことである。
その所長曰く、「佐藤さん、除草剤を使用しないと、草に負けてしまいます。また、先ずそんな低窒素栽培では、満足な麦は育たないですよ」と。
その時考えたことは、こうである。
「日本の先人達も麦は作っていた。むかしは窒素肥料も大量の畜糞も無かった。それでも立派に麦は育っていたはず。大豆と麦の二毛作では、広い圃場に、作ることに大変な労力が要る草木堆肥は大量に撒けないし、年に二回(大豆と小麦の二毛作)しか堆肥も撒けない。となると、先人たちが行っていたように、数年をかけて、土作りを行うしかない」と決意した。
 
唯、気になるのは、穀類価格の安さである。
      国際価格(kg)     国内価格   反当収量
大豆    33.5円   230円   160kg
小麦    17.3円    48円   420kg
 
内外価格の格差は比較することすら難しいほどの価格差がある。
これは、大量生産の国である米国・豪州と比較して、インフラ整備・流通コスト・国の支援(補助金)に圧倒的な差があり、結果として、穀物の内外価格差は数倍から10数倍の開きがある。
そのため、国内の穀類反当収入は、大豆で36,800円、小麦で20,160円にしかなりません。
通常米の反当収入が70,000円前後であるのに比べても如何に安いことか。
穀類価格の内外価格差と反当収入の安さから、国内の穀類がお米に集中していることがお分かり頂けると思います。
当農園では自然栽培・低窒素栽培のため、通常農業と比べてその生産量は約半分です。
価格をやや上げたとしても到底労力と手間に見合うものではありません。
必然的に、主食のお米以外の穀類は、加工品として消費者に届けていくことにならざるを得なくなる。
そう言うわけで、自然栽培による穀類生産の厳しい挑戦が始まった。蟷螂の鎌になるかもしれない。

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農園日誌Ⅱー「活きること」ーPART17ー現代有機野菜の課題点


2019.5.15(水曜日)晴れ、最高温度26度、最低温度17度

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4.28の農園体験会にて、約100余名の家族が種を蒔いた畝。
見事に不均一に、密集して蒔いて頂いた。その痕跡の残るサラダセットです。
農園主は覚悟の上で、片目を瞑って眺めておりました。

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       収穫体験の一コマ。スナップエンドウと小松菜の収穫風景

二班に分かれたので、混み合わず、みなさん、楽しんで頂けたようで、特に子供さんは、始めて本格的な農園での体験は、真剣な顔で、一日農業者になりきっていた。
おそらく、こんな農園体験は全国にも例が無いことでしょう。

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            これが我々が蒔いたサラダセットの畝です

よく見てみると、サラダセットの合間に、夏野菜であるピーマンが顔を覗かせている
夏野菜が生長する合間に春野菜が一緒に同居している風景。
肥沃な圃場を最有効に活用している。


「活きること」PART16
2015年5月5日     現代有機野菜の課題点
 
 欧州にはオーガニックと言う言葉がある。日本では有機農業である。
処が、日本の有機JAS規程に該当する農業では、世界基準であるオーガニックと言う定義には該当しないらしい。どうやら、日本基準の有機JAS野菜は信用されていないようだ。
この欧州から発したオーガニック(有機農業)は、ある事件から動き始めたようだ。
17世紀、硫安(窒素肥料)が発明され、欧州の農業生産力は飛躍的な進歩を遂げた。
欧州大陸は大きな河川が多く、大陸の地中は地下水脈で繋がっている。
窒素肥料が大量に撒かれ続け、硝酸態窒素に置き換わり、欧州全土の地下水系に流される。これは毒素であり、それから2世紀が過ぎ、緑(青)色の血液を持った子供が生まれた。
そのことに憂慮を抱いた欧州の学者たちが、窒素肥料農業(近代農業)に変わるものを探し、行き着いたのが、日本の農業を学ぶことであった。これが欧州のオーガニックの始まりである。
当時、日本では、里山から芝を刈り、田畑の草を刈り、わずかな畜糞(おそらくは鶏や農耕用の牛の糞及び人糞など)を加え、1~2年がかりで発酵させ、草木堆肥を作り、田畑に施肥して穀類や野菜を育てていた。私が言うところの自然循環農業を有史以来行っていた。
 
皮肉なことに、日本は、その頃から、農業先進国である欧州や米国の近代農業を政府の肝いりで推進していた。窒素肥料・農薬・機械化大規模農業です。農園主がまだ小さい頃はわずかながら、日本の草木堆肥は残っていたが、すぐに消滅し、近代農業の国に変貌していた。
やがて、欧州のオーガニックを真似て、消費者保護の名目で有機JAS規程が作られ、現在に至っている。
この段階で、日本のむかしながらの自然循環農業は一旦、途切れ、有機農業(JAS規程)として新たに登場することになった。

途切れたとお話ししましたが、実は古来からの自然循環農業を継続していた農家もわずかながら残っていたのですが、彼らは、国の定めた有機農業とは異なることにされてしまったからです。
最もその当時の有機野菜の主体は、牛糞や鶏糞にわらを混ぜた厩肥、若しくは、米糠・油粕・魚腸・海藻などを使うぼかし農法でした。
ここで日本の有機農業(広義)はその出発点から大きな矛盾を抱えてしまった。
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機械も無いむかしの人達は、畑から草を刈り取り(これはいまでも同じだが)里山から柴を切り出し、わずかな農耕用の家畜や人糞(発酵促進剤)をその上に振り掛け、1年がかりで草木堆肥を作っていた。
この木や葉っぱには、無限の微生物や放線菌が棲んでおり、地中深く根を下ろす木は、地球からバランスの良いミネラル分を摂取している。この微生物達とミネラル分が土を育てる
今では、破砕機で剪定枝を破砕し、草・牛糞(放牧)を三層に積み上げ、トラクターで混ぜ込み、タイヤローダーで積み上げ、夏場は、約1ヶ月ほどで草木堆肥を作ることができる。
それでも現在の農業者は、その手間を惜しみ、簡易な窒素肥料や配合飼料の入った畜糞を使い、野菜を育てている。
今までも一体何人の方にこの草木堆肥の作り方を教えたかしれないが、残念ながら、それを実践されておられる農家の人は居ない。

 
当農園は、むかしからの草木堆肥を使った有機農業(自然循環農業)を現在に復活させており、国の定めた有機農業(JAS規程)とは一線を画しております。それと区別するために「むかし野菜」と称している。今ではこの草木堆肥しか使わない農法は当農園しか残っていないようです。
当農園の自然循環農業は、剪定枝(葉っぱも含む)を破砕し、草を刈り取り、むかしのように発酵促進剤として、わずかな牛糞を使用している。
その牛糞は、肥育牛のように配合飼料(抗生物質・薬品が混入)を与えず、草を中心とした餌を与えた
繁殖牛(肥えると子を産まなくなる)のものを使用している。このことにより、圃場に微生物や放線菌を駆逐する抗生物質や化学物質を極力持ち込まないようにしている。
 
ここで知って頂きたいことは、オーガニック農業の先進国であるオーストリアやドイツなどは、緯度的には日本の北海道に当たる。そこでは、寒冷気候であり、害虫の発生は微々たるものであることを・・・
実際には、近年の温暖化によって害虫の異常発生が続いており、北海道と長野県の一部以外では、無農薬栽培は極めて困難になっている。有機JAS規程はその発足から大きな問題点を抱えていました。
 
有機JAS規程の骨子
肥料も農薬も化学合成していないものを使うこと。
有機物なら何でもよいこと。
店頭で売る際は、有機JASの認定を受けていない場合、有機野菜と表示してはならない。
但し、認定の当初は厳しい査定や検査が必要であるが、一旦取得すると、後は、書類査定で良いのです。
 
そんな経緯から、有機野菜は無農薬野菜と言った定説が出来上がってしまい、現実には季節によって異常発生する害虫被害により、完全無農薬では野菜ができず、建前と本音の板挟みになった有機農家のために、国は最近になって「有機無農薬」と言う表示を禁止するに至った。
 
欧州のオーガニックの多くは、消費者(市民)が現場の農業にも加わっており、契約栽培に近く、農園マルシェでも求められる。
日本の消費者が流通(スーパー・有機専門の流通)に依存するのとは大きな違いがみられる。
そのため、欧州では生産者と消費者の距離が近く生産現場を常に見ていることになる。
そう言ったことも、日本の有機野菜への信用度が薄いことに繋がっているのかもしれない。
 
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              ビーツの畝

生産者と消費者の距離感があり過ぎるのが日本の農業の現実です。欧州のオーガニック農場では、消費者は良く農園を訪れ、非常に日常的な接し方をしているようだ。これだと生産者と消費者の対話は進み、農業者がどのような考え方で野菜を育てているのか、消費者が何を望んでいるのか、常に対話ができている。
このビーツですが、一般的には、日本の消費者には馴染みが無い。実は、このビーツの赤い茎が甘くて美味しいのです。
当農園では10年以上前からビーツを育て、この茎の食べ方まで消費者にお知らせしてきた。その他にも、芽キャベツ・筍芋・エシャロットなど、滅多に市場に出回らない野菜も日常的に育て、お届けしている。
農園体験会も消費者との距離感を少しでも縮めるために、当農園は半ば義務としてその体験会開催をし続けている。


それでは、実際の有機野菜の現場を覗いてみよう。
有機栽培の場合、畜糞主体の肥料・米糠油粕主体のぼかし肥料・スーパーや家庭ごみなどのコンポスト肥料が主流であり、そこに稲わらを加えたりしている人もいる。欧米では畜糞肥料が主なようだ。
ここで大きな課題が発生している。
放牧牛や平飼い自家製飼料の鶏糞(実際にはほとんど無い)ならば、問題はないのだが、多くの畜糞は外国産の飼料を使っている。その配合飼料には畜舎で病気が蔓延しないために、病原菌を撃退する抗生物質や多種類の薬品が入っている。
これらの化学物質や抗生物質有機肥料として畑に撒かれると、本来は微生物や放線菌などによって土壌を育み土を健全に育てて行くのが持続可能な有機農業の筈が、土壌はケミカル物質に次第に汚染され、抗生物質によって微生物は駆逐されていくことになる。
とある有機農家を訪れてみると、土はごわごわで、団粒化は進んでいない。つまりは微生物層が土壌に育っていない。高校を卒業し、いきなり当農園で学んだ22歳の青年が、そこの土に触れ、「お父さん土が固いし、野菜は黒々としていますね」とすぐに気がついたようでした。
 
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             耕耘する前の土

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             耕耘した後の土

お分かり頂けるだろうか?これは草木堆肥歴16年の圃場の土です。
通算80余回ほど、草木堆肥を施肥し、土作りを行ってきた2番の圃場です。団粒化と言って、土が砂状に粒々になっており、鍬を入れるとさらさらとした感触で、草取りをすると、小指の力だけで草は抜ける。
有機物残渣や微生物の死骸が核になり、団粒化していく。草木堆肥で土作りを行うと、一年間でおよそ数センチしか土はできていかない。従って3年間を掛けて、10センチほど土が育っており、根の浅い葉物がようやくできる。
5年を経過すると、15~20センチの深さまで団粒化が進み、実物などの根を深く下ろす野菜ができはじめる。
この二番の圃場は、50~60センチの深さまで団粒化が進み、何を作っても良くできる。
所謂、保水力・保肥力を有し、空気も入りやすくなる理想の土となる。
当然に野菜はプラチナ級の味香り・旨み・歯切れの良い食感が得られる。
ちなみに、研修生として入った後藤君の圃場は、草木堆肥を降り始めて二年目に、高菜の種を蒔いてみた。彼は、期待していただろうが、二ヶ月経っても成長が遅く、ついには、高さ12センチにしか育っていないのにも拘わらず、早くも莟立ちし始めてしまった。
畑を借りる前、化学肥料や除草剤を使っていたのだろう。微生物は棲んで居らず、地力が無いせいだ。
他方で、7番の圃場は借りて二年目で葉物が立派に育った。この圃場は、5年間放置され、雑草に覆われており、草取りは大変だったが、微生物層ができており、二年目で早くも団粒化が見られた。


次に、硝酸態窒素の問題がある。
窒素肥料を多用している慣行農業(近代農業)、畜糞肥料(彼らは堆肥と呼んでいるが)を多用している有機農業では、いずれもその土壌は窒素過多に陥り易い。(私はこれを畜糞の科学肥料化と呼んでいる)
野菜は困ったことに土壌に窒素分があればあるだけ吸収しようとする性質を持っている。そして、成長し続けることになる。
野菜の体内に吸収した窒素分は、イオン化して体内に吸収し成長するが、余剰な窒素分は硝酸態窒素とし体内に留まる。こうして、硝酸態窒素の多く含まれた野菜は収穫され、市場に出荷される。結果として、消費者は、硝酸態窒素を常時摂取することになってしまう。
草木堆肥しか無かった時代のむかしの野菜(自然循環農業)は当然に低窒素(高炭素)栽培であった。

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低窒素栽培で育った野菜は、品種にもよるが、淡黄(緑)色をしている。
高窒素栽培で育った野菜は、深緑色をしていることが多い。

 
※低窒素栽培に於ける完熟野菜の仕組み
土壌に窒素分が多いと、野菜はその体内にミトコンドリアと言う成長酵素が無限に生まれてくる。
土壌に余剰窒素があれば、ミトコンドリアは生まれ続け、成長を促す。野菜には炭水化物とデンプンが多く蓄えられ、やがてある程度に大きくなると出荷される。慣行栽培野菜や畜糞主体の有機野菜を食べてみると、やや苦みを感じてしまう。これはデンプンの苦みです。
他方で、低窒素土壌で育った野菜は、土中の窒素分を吸収できなくなると(土中に窒素が切れる)、成長が止まり、体内に蓄えたデンプン質等を分解し、エネルギーに換え(イオン化)野菜は生き残ろうとする
その過程で生まれてくるのが糖質やビタミン類です。これが完熟野菜です。
さらに言えば、低窒素土壌でも野菜が生長できるのは、ミネラル分があるからです。ミネラル分は常に土中に補給し続けないと、土壌は次第に痩せてきます。
このミネラル分をバランス良く多く含んでいるのが、実は、土中深く根を張る木であり、葉っぱです。
マントルには地球創世過程で、ミネラル分が多く残っております。
この完熟野菜は、低窒素土壌でしかあり得ない仕組みと言うことになります。
 
私は自然循環農業を行っていて、いつも思うのは、この自然なやさしさと味香りや旨味の高さや歯切れの良い食感を感じていると、昔の人達は随分と美味しい野菜を食べていたんだな、と言うことです。
先人たちの叡智にも感心しております。

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              じゃがいもの花

じゃがいもの花が咲き揃う年は農作物の出来が良いのです。
久しぶりの良い季候に感謝、感謝です。


農園日誌Ⅱー「活きること」ーPART16ー遠くなる旬菜の記憶

2019.5.8(水曜日)晴れ後曇り、最高温度20度、最低温度10度

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                     じゃがいもの花

 今年は、昨年の夏以降から、最近の10年間で、温度の変動はあるものの、珍しく季節に順な天候となっている。
そのため、野菜のほとんどは順調に育ち、いや、むしろ育ち過ぎて、あまり気味に
推移している。近年に無く楽な農業をさせてもらっている。
このジャガイモの花も異常気象の続く年は、咲かずに収穫期を迎えてしまう。
花が咲いて3週間ほどで、新じゃがの収穫時期となる。

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               露地トマトの初期設定を終えた畝

 露地栽培のトマトは、枝を2~3本立てとし、南に(太陽)向かって斜め45度に傾けて全ての枝を剪定誘引する。長い枝で5メートルにはなる。そのため、この初期的な設定作業は、そのの善し悪しによって収穫量が決まる重要な作業となる。
これから露地トマトが終わる10月初旬まで、延々と芽掻き・剪定・誘引作業は続く。

「活きること」
2014年12月 遠くなる旬菜の記憶
 
冬の農園は白い世界へと変る。むかしはどこにでも見られたビニールトンネルに覆われた農園の冬景色
露地栽培の場合、11月下旬~翌年2月までの厳冬期には、霜害や凍結防止のため、あるいは、成長を促すため、どうしてもビニールトンネルのお世話になる。トンネルを張った後、暖かい日や雨の日は剥ぎ、氷点下になる日は閉めるなどを繰り返すなど手間が掛かる。今は施設園芸(ハウス栽培)全盛の時代、
ビニールトンネルが並ぶ風景は中々見られなくなった。
専業農家は減少の一途を辿っており、農産物生産における露地野菜の比率も下がり続けている。

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ビニールトンネル張り作業も約20年間、様々な遣り方で試行錯誤を繰り返し、今の形になった。孟宗竹を切り出し、8本に割き、四辺を削り、太い竹は支柱にし、その上にビニールトンネルを掛け、細い竹は抑えとして土に深く差し込む。両端は太い竹に巻き取り、土中に埋め込む。
こうすることによって、寒い日が続く時期は閉じ、雨の日や暖かい日は開けて雨や太陽に当ててやる。閉じたままだともやし状になり、まともには育たない。
冬の間は、この作業が続く。
 
苺は何時が旬?と聞かれても皆さんは冬と答える。トマトは何時が美味しいと聞かれると、夏とは答えない。トマト農家などは、秋にトマトの苗を定植し、(勿論加温ハウスです)冬に育て、春先の2月頃から出荷が始まり、6月には苗を撤去している。
6月頃になると、露地トマトの第一陣が赤く染まり始めるが、露地栽培トマトの難しさがすぐに出る。
トマトは元来が乾燥気候の中で育つものであり、水分を嫌う性質を持っている。
日本は、梅雨から夏の初めに掛けて、湿度が高く、雨が多い。その水に即反応して、大半は割れてしまう。
それでも、露地トマトは貴重品であり、季節に応じて美味しさは変化するものの、お客様には食べて頂いている。季節は進み、7月中旬、梅雨が明け、ギラギラした太陽が出始めると、酸味と甘さのバランスが良くなり、旨みが出てくる。
何より、太陽を浴び、雨風に耐えてきた露地トマトは酸味があり、味は濃く、鼻にツンとくるトマト特有の香りが命である。
トマトは、8月になると、太陽の光が強くなりすぎており、雨が降るとひび割れを起こしやすくなってくる。露地栽培のトマトはデリケートである。
時季になると、毎日収穫し、雨が降る前には、強めに採り、それでも割れたトマトは、トマトソースにする。割れたトマトの量も半端では無い。
 
昨今、甘さのみ追求したトマトが出ている。塩分ストレスを掛けて作る水耕トマトなどがその代表であるが、品種改良をし続け、甘さを強調した品種も多く出回っている。
現在、市場に出回っているトマトの99%がハウス栽培のトマトです。少しの雨でも割れたりひびが入る
トマトは、露地栽培ではできない、と言うのがその理由であり、ハウストマトは常識になっている。
それらのトマトを食べてみると、自然の寒暖差や太陽・雨・風等に晒されないため、味香りは薄く、トマト本来の酸味を感じない。調理用に使ってみると、酸味の無いトマトでは、美味しい料理をできない。
イタリアのシェフがどうして日本人は甘いトマトを求めるのだろうと首を傾げていた。

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            鈴生りになったトマト

 欧州や南米とは異なり、日本は梅雨があり、湿気が強く、イタリアの様には行かない。そのため、下葉は掻き取り、地面からの湿気を防ぎ、兎に角風通しを良くしていないと、多くのトマトは腐り落ちてしまう。
枝も密集を避けるため、芽掻き作業を怠ってはいけない。この管理だけでも大変な苦労と労力が必要となる。
それでも、当農園はあくまでも露地栽培にこだわる。理由は簡単です。
美味しいからです。昨今の甘いだけ、みてくれだけのトマトは作りたくない。
太陽の照りつける夏場になると、40度近くになる太陽の光と熱でトマトは焼けてしまう。
そのため、今度はある程度葉っぱを残していかねばならなくなる。
また、放射冷却の激しい日は、その朝梅雨だけで、トマトは割れてしまう。そのため、雨が降る、あるいは、晴天の日の前には、薄く染まり始めたトマトは収穫しなければならない。
露地栽培トマトはリスクの塊となるが、そんなノウハウを得るまでに10数年を要した。

 
可笑しな事に、マーケットでは、手間がかかり、成長も遅く、美味しいはずの露地野菜の方が、市場価格が安く、手間が掛からず、成長も早く、味の薄いハウス栽培の方が、市場価格が高いと言う奇妙な現象が起きている。ちなみに、当農園でも小さな育苗ハウスが一棟ある。偶々、空いた畝に葉野菜を育ててみるが、どうしても味香りが薄く、大味となり、スタッフの評判も悪い。
専業農家の人達はみな、見てくれの悪い露地栽培野菜の方が美味しいことを知っているのだが・・。
 
今では、農家から直送してくる野菜を販売していた八百屋さんが次々と廃業している。
彼らは、美味しい野菜作りに頑張っている農家の代弁者でもあり、旬菜や美味しい野菜のことに詳しく、消費者と対面販売を行ってきた。後継者がいないことや農協に依存しない農家が居なくなったことも大きな要因です。
キャベツ・白菜・ブロッコリーなどは露地栽培が現在でも主流であるが、その他の多くの野菜が施設農業に置き換わってきている。
そのため、旬菜と言う言葉自体が消えかかっている。施設栽培は、リスクも少なく野菜の生産回転率が高い。その代わり、設備は大掛かりにしないと、採算に乗りにくい。そうなると、小規模零細な農業では成り立たなくなっている。結果として農業の裾野は極めて狭くなっていかざるを得ない。農地も狭い零細小規模農業が主体の中山間地農業は壊滅状態となっている。そのことを最も危惧している。
 
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             大きな家庭菜園

 一つの畑でも一季節、10数種類の野菜が植わっている。家庭菜園を限りなく大きくしていくと当農園のスタイルになる。年間100種類以上、一季節30種類以上の野菜がそこには育っている。季節が重なる時季には、60種類以上の野菜が植わっている計算になる。
全ての野菜が微妙に育て方が異なり、この全ての野菜の管理ができるまでに少なくとも10年間の経験が必要であるが、それで全てを知り尽くしたことにはならないのが露地栽培です。
毎年同じように気候が移っていくわけではなく、去年成功した育て方は今年はもう通用しないのが露地栽培である。そのため、自然循環農業を営む農人は自然と畑と同化した動物的な嗅覚や経験が必要となる。
おそらくは、死ぬまで勉強の毎日となる。そのため、この農人は自然に対して謙虚な姿勢や心が必要になる。人は生きているのでは無く、自然の中で生かされていることを知っておかねばならない。


最近、野菜固有の味香りのしないものが増えてきている。種物屋さんは、品種改良を重ね、生産し易く、形の整う野菜を目指している。ハウス栽培生産者の支持を得られないからだと思う。
その結果、露地栽培に寄り添った野菜本来の味香りや美味しい野菜の種子が次々と廃盤になってきていることに危機感を覚えている。農業の裾野は確実に狭まっており、地域農業の再生への道程は遠い。
旬菜が一番美味しいと言われ続けてきたが、旬菜と言う言葉は今では追憶の世界となっている。
 
以前の専業農家は、如何にして土を肥やし、美味しい野菜作りを競い合っていたものだ。その頃の農家は自負心を持ち、良質な野菜作りに誇りを持っていた。
今はどうだろう?流通が求める規格野菜や見てくれの立派さを競い合い、如何に、売上を上げていくかを考えざるを得なくなっている。そこには、かっての農家のプライドは感じられない。
生産者が商品の良質さを追求しなくなったら、最早、商品では無くなり、単なる金儲けの「もの」でしか無くなる。
少なくともむかし野菜グループでは、農産物及びその加工品の健全性・良質性・美味しさを、消費者に胸を張って伝えていくことに、誇りを持ち、生産者としての尊厳を維持し続けるように教えている。
むかしながらの草木堆肥しか使わない自然循環農業は、他に例が無く、このグループだけなのだから。

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              秋の静かなる畑

 私は日本の四季の移り変わりが好きです。その中でも晩秋の安らかで静かな秋が最も好きです。冬の眠りに入る前の荘厳な秋の風景。
野菜達は、やがて来る極寒の足音を感じているのか、懸命に命を繋ぐかの様に、静かに成長している。


農園日誌Ⅱー「活きること」ーPART15ー飲食業界の実相

2019.4.30.(火曜日)雨、最高温度18度、最低温度13度

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         農園体験会ースナップエンドウの収穫体験風景

 世は正にハウス栽培・慣行農業の時代。有機野菜と言えども、畜糞主体の高窒素栽培を行っている。農産物市場は巨大流通が仕切り、大国の思惑が飛び交う。
この小さな農園から大市場に向けて「健全な野菜」作りを叫んでも届かない。
むかし野菜グループは、大海で漂う笹舟になってはいけない。
この日本の先人達が築き上げてきたむかしの農法、自然循環農業を折角復活させたのだから、未来へ繋いでいかねばならない。
ここに集まってきた小さな子供達の未来を明るいものにしていかねばならない。

 16年前に開いたこの小さな農園は、その当初から、消費者へ向けて市場啓発・啓蒙活動をし続けることが、宿命付けられていた。
真剣な顔をして、楽しそうに収穫をしているこの子等に、そして育てている親御さん達に、少しでも「健全な野菜とは?」を理解して頂ければと願う。


2014年9月10日 PART15ー飲食業界の実相

当時加盟していた「ぐるなび」と言う生産者とレストランを結びつける会社があった。
そこから大阪での商談会への招待があった。迷ったが、若いスタッフ達に
飲食店の野菜に対する認識とその実態を見させようと思い、受けた。
行き帰りともダイヤモンドフェリーを使い、総勢4名、船中二泊・大阪一泊の旅行となった。
このダイヤモンドフェリーは私にとって感慨深い会社の一つであった。

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 私が40歳頃、西大分で融資の窓口を担当しており、そこは不良債権の塊のような支店であり、その中に、4隻の船はいずれも老朽船であり、貨物車運搬を主な業務としており、個人顧客はついでに乗せているだけの収益も出せないフェリー会社があった。
新造船建造が最後の生き残りへの切り札ではあったが、資金が付かない。何しろ一隻当たり40億円、
4隻で160億円という途方もなく資金が要る。取り敢えず、窓口で相談は受けてはいたが、最初から諦め気味であった。
そんな中、真夜中に自宅に無線電話が入る。
「嵐です。本艦は唯今、来島海峡の真ん中です。エンジン停止状態にあります」(潮流の激しい処)
「それは大変です。大事故の危険がありますね。対処はできているのですか?」と聞くと、「それは何とかします。私が申し上げたかったことは、全ての船が、こんな切迫した状況です。当社社員及び家族300名のため、どうか、新船を作らせて下さい」と、必死の懇願であった。その重い声が私の心に響いた。
ちなみにこの嵐船長は剛毅沈着な操船で知られており、ダイヤモンドフェリーの顔でもあった。
ここから、嵐船長が私を東へ西へ走らせることになった。
 
先ずは収支計画の見直し、収益性が弱く、積載台数を増やすため貨物運搬事業にノンヘッドトレーラーを主力とさせ、さらに客室を増築し旅客運送事業も付加させることに改めさせた。(個人会員証も創設)
次は肝心の建造資金の調達、そのネックとなっているのが、当社を裏から仕切り、必ず横槍を入れてくる当時来島ドックの大株主。(経営の神様と言われた人物)その排除が必要となり、佐世保造船・函館造船(いずれも来島傘下)の責任者に直接面談し、協力を呼びかけた。
その折衝と並行して、同社への融資先であった当銀行と大阪銀行の協調融資を模索した。
そのため、大阪銀行の本店に数回出かけ、交渉するもはかばかしく進まない。
ふと思い立ったのが、あの懐かしい小塩支店長であった。聞いてみると今では東京審査部部長とのこと。
このままでは帰れない。夕方、侘しい安ホテルの一室から早速に東京本店へ電話を掛けてみた。
すぐに出てくれた。早口で経緯を話すと、「今の私にはそこには権限が無い。佐藤君は明日、朝10時に本店に行けるかね!」とのこと。
翌日、出向き、受付嬢に名刺を差し出すと、すぐに5階の審査部副部長へ繋いでくれた。
結果としては、惨敗ではあったが、その副部長の一言に心で泣いた。
「小塩さんから、このように指示されました。肩書に囚われことなく、真摯に聞きなさいと」
 
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 今や長い取引先となった福岡のフレンチ、ジョルジュマルソーのオーナーシェフから依頼があり、開店10周年の回を催したい、ついては、野菜を提供してくれないかと・・
それならと、スタッフ一同で、会場に赴き、このように焼き野菜をお客様に披露した。
かわいそうに、育ち盛りの若いスタッフ達は、高級肉のステーキやオマール海老の焼き物を横目で眺めながら、汗まみれとなっていた。
唯、お客様の焼き野菜への反応が良く、小さな声で、「肉より野菜の方が美味しかったよ」
と告げられ、心のバランスが保てたようだ。

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マルソーには、佐藤自然農園の野菜が週2回届けられ、しっかりとマルソーの顔となっていた。会の終わりには、いきなり、小西シェフから挨拶を促され、むかし野菜の紹介とマルソーの心意気などを述べたように思う。

休んではいられない。
以前、信託銀行(福岡)の融資担当から相談を受けて、とある会社の再建に一役を買ったことを思い出し、
調べてみると、大阪商船(ダイヤモンドフェリーの航路権を欲しがっていた)の株を2%保有していた。
早速その融資担当者の所属を調べてみると、東京本店の審査役となっていた。
直ちに、連絡を取り、私が作成した膨大な経営計画書類を送った。
これが凄いのだが、一週間で彼から連絡が入った。東京へ出向いてくれとの依頼であった。
訪れてみると、審査部長の部屋へ通され、鈴木審査部長からこのように言われた。
「貴方の作成した資料は、私には作れない。多分君の言う通りなのだろう。ところで、協調融資を希望しているとのことだが、何か存念はあるかね」そこで、私は、この新船の建造やこの会社の再建は当銀行では難しいと正直に話し、再建への支援を要請し、その道筋を伝えた。
「先ずは、経営を不安定としている来島ドックの会長を辞任させる。そのためには、佐世保・函館造船の協力が必要である。先ずは一隻の建造が急務であり、続く3隻の新造船建造には、貴銀行の積極的な関与とこの航路を欲しがっている大阪商船の将来的な資本・経営参加が望ましい」と向けてみた。
さらには、「当銀行はこの融資に積極的ではない。融資割合を貴銀行が増やしてくれたら、私が何とか本部審査部を説得します」と約束した。
その後、当銀行(実際は頭取)が約束を反故にしたり、揺さぶりを掛けられたり、様々な問題は発生した。その駆け引きは凄まじく切迫したものではあったが、何とか凌ぎきり、結果として協調融資が整い、ようやく1隻の新造船が出来上がった。嵐船長や鈴木審査部長との約束は果たした。
後日談ではあるが、鈴木審査部長から数回、取引先である上場企業の副社長に推薦するが、東京へ出てこないかとの誘いがあった。恩義は感じているが、バブルを引き起こしたのは間違いなく彼らである事を確信しており、丁重にお断りした。彼らの走狗になるつもりは無い。

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今日は農園の休日。と言うより、休みを取ってみんなで久住山に登った。
流石に農園で育っただけはある。小さな子供達も涙を流しながらも大人でもかなり苦しい山を頑張って登り、そして下山した。

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この日はあいにくのガスがかかり、みな、ずぶ濡れになりながら、厳しくそしてやさしい山の一日を満喫したようだ。降りてきてから、どうかまた登るか?と聞いたら、「今度は何時
登る」と・・・頼もしい子供達である。
皆で山の温泉に浸かり、帰りの車の中では正体無く深い眠りに就く。

 
数年後、本店の融資窓口で仕事をしていると、受付から連絡が入った。
佐藤代理(まだ代理のまま据え置かれていた)にお客様です。変なんですよ。真っ白な服を着ており、
佐藤さんに会わせてくれとのことです。
会ってみると、相変わらず大柄で謹直な顔に真っ白な制服と帽子、嵐船長の正装姿であった。
いきなり、敬礼をされ、「私は、本日をもって、退鑑致しました。佐藤さんにご挨拶に伺いました」と
これが彼の「礼の示し方」であった。思わず、ご苦労様でしたと答えた。
 
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大阪での野菜の商談会では、飲食店のシェフ達が集まり、野菜だけではなく加工品などの食材製造者も多く参加していた。
基より、新規の取引先が多くできるとは期待しておらず、野菜を販売したことの無い若い農園スタッフ達に、その実際を体感し、何かを学んでもらいたいという思いで参加した。
しかしながら、開催された場所が悪すぎた。「靴底をすり減らしても兎に角安いものを探す」と言った関西の人達の気質はよく分かっていた。関西の方には悪いが、農産物の実質価値などはやはり、無縁の土地柄なのだろう。当時、全国に120人を超える個人宅配先と10軒の飲食店を抱えていたが、そのうち、関西方面は3名しかいない。勿論、飲食店は1軒も無い。
こんなやりとりで終始した。
試食してもらった上で、「如何ですか?」「うん!美味しいね」「値段はいくらですか?」「〇〇です」と答えると、「へー!高いね」それだけで商談は終了。後の言葉が続かない。
中には、味すら分からない料理人も多く参加していた。一流との評判のある料理人ですら、さほど、野菜のことが分かっておられる人はいなかった。
若い研修生達には、コミュニケーションの仕方、理解してもらうことの難しさ、売ることの難しさ、など、学ぶことの多い一日でした。
改めて、今、彼らも定期購入して頂いているお客様の質の高さを思い知ったことだろう。
その感謝の気持ちを心に留めておいてもらいたい。

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